おっさんは小学校の時に日本史を習い、室町時代の南北朝時代に興味を持ちました。
南朝=吉野朝廷は、鎌倉幕府滅亡後に始まった建武の新政に失敗した後醍醐天皇などの大覚寺統の天皇が、京都の都を逃れ奈良県吉野郡吉野町や奈良県五條市西吉野町などを本拠とした朝廷のことです。
ここでは叙位や元号などを制定していて政権としての機能をもっていました。
その南朝最初の都に行きたいと長年思っていました。
そこで後醍醐天皇が南朝の都をおいた奈良吉野に行ってきました。
(南朝の都)
吉野の都は、奈良県吉野町吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)のなかにありました。
中世、金峯山寺は付近に多くの子院があったために多くの僧兵を抱えていました。
後醍醐天皇が吉野の地を選んだのは、この力を借りようという軍事的背景もありました。
ここです。
「吉野朝」と言われた南朝56年のうち。ここ吉野に宮が置かれたのは20年弱とみられています。
吉野朝廷跡から見た景色。山深いです。冬は寒さが厳しいと思います。
きらびやかな京都を離れ、ここ吉野での生活、どんな思いで山々を眺めたのでしょうか・・。
(激動の南北朝時代)
鎌倉幕府末期から滅亡、建武の新政、南北朝の成立、南北朝の対立、南北朝統一といつたこの時期は、激動の時期です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を企て失敗し隠岐に流されますが、漁船に潜伏して脱出します。この時追手に見つかりますが、大量のイカの下に隠れて見つからずに済みます。
後醍醐天皇を追討するために鎌倉幕府から派遣された足利尊氏が寝返り京都の六波羅探題を攻め、さらに新田義貞が鎌倉を攻略し、1333年に鎌倉幕府は滅びます。
翌年1334年7月、後醍醐天皇による天皇中心の政治、いわゆる建武の新政がはじまります。
しかし公家を重視する政治、政局の不安定さ、武士に対する恩賞給付などに失敗があり、武士に不満の声が上がります。
1335年、足利尊氏と後醍醐天皇が対立し足利尊氏が挙兵したため建武の新政は崩れます。
1336年、足利尊氏は京都に新しい天皇=光明天皇を立てます。(北朝)
そこで、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れそこに朝廷を作ります(吉野朝廷・南朝)。
1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられ京都の足利政権の室町幕府を開きます。
こうして日本全国の武士が軟調と北朝に分かれて戦う全国的な内乱が続きます。
後醍醐天皇は「北朝に渡した神器は贋物であり北朝の光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して北陸や九州など各地へ自らの皇子を派遣します。
やがて南朝の北畠顕家・新田義貞という名将が相次いで戦死してしまい、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立ちます。
1348年、室町幕府執事の高師直は四条畷の戦いで楠木正行と弟の正時を討ち滅ぼし、
そのまま吉野に行き吉野宮は陥落。南朝一行は奈良県五條市へ逃れます。
・・まあ、色んなことが連続で起きますねえ。
南北朝が統一されるのは1392年。3代将軍足利義満の時です。
(2つの政府が日本に存在)
2つの政府が同時に日本国内に存在するのは、南北朝以外には、平将門が作った坂東の国、明治維新初期に北海道にあった蝦夷共和国などがあります。
南北朝時代は、1336年から1392年まで56年あまりです。
<<吉野朝廷跡への行き方>>
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
吉野朝廷跡、静かな場所にありました。