東京九段にある靖国神社。
その境内に大村益次郎の像があります。
(天才軍略家・大村益次郎)
大村益次郎は、幕末から維新にかけて活躍した長州藩の天才的軍略家であり医師で、
江戸幕府倒幕の中心的人物の1人です。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、成績優秀で塾頭になります。
豆腐を肴にお銚子2本の酒を飲むくらいで、どんちゃん騒ぎの宴会は嫌いというまじめで静かな人物だったようです。
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大村益次郎は1853年に宇和島藩に出仕し、蘭学の教授を行い、同時に軍政改革に参画します。
その後1860年に萩藩雇士となります。大村益次郎は、江戸時代末期に起きた長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、各地で勝利をおさめます。
そして明治新政府樹立後は、太政官制において軍務を統括した兵部省の初代の大輔(次官)を務めます。このことから大村益次郎を日本陸軍の創始者と見る人も多いです。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
近世名士写真 其2 近世名士写真頒布会 昭10 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
靖国神社にある大村益次郎像は、戊辰戦争で、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめている姿で、1893年(明治26年)に造られた日本初の西洋式銅像です。
(1日で彰義隊を壊滅)
1868年5月15日に、大村益次郎が指揮する政府軍が東京上野の寛永寺 周辺にこもっていた彰義隊を攻撃します。
この戦いでは新政府軍の圧倒的な火力に押され、彰義隊が、わずか1日で壊滅します。
ちなみにこの戦争は、戊辰戦争で、唯一、江戸市中で起きた大規模戦闘です。
そして彰義隊が滅んだこの年の9月8日に元号が「慶応」から「明治」に変わります。
そして翌年の1869年(明治2年)には6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社、現在の靖国神社の建立を献策しています。
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(大阪砲兵工廠を建設)
幕府が倒れ新政府になると大村益次郎は、軍備の西欧化および近代化、さらに軍事兵器を国内で生産できるような体制を確立する事が重要だと考え1870年(明治3年)4月13日に、大阪城内に大阪砲兵工廠を建設しました。
この大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点で、敗戦直前は約36万坪(甲子園球場の約30面分)の敷地に、200近い軍需工場があり6万8千人が働く、大工場群と
なりました。
先ほど紹介した東京の靖国神社には青銅製の第二鳥居があります。
これは、1887年(明治20年)に大阪砲兵工廠で鋳造されたものです。
この鳥居は、青銅製鳥居としては、日本一の大きさを誇っています。
(襲撃、そして死去)
維新政府樹立後、大村は新政府の軍隊を、武士だけではなく、徴兵された全国民で構成することを発案します。
しかし、この考え方が武士のプライドを大きく傷つけ反発や不満を抱かせます。
そして1869年(明治2年)9月4日、京都木屋町の宿に泊っていた時に刺客に襲撃され傷を負います。
その後大村は大阪に送られ、現在の碑の近くにあった浪華仮病院で治療を受けます。
その後、この地で闘病生活の最後まで諸策を練っていたそうですが、敗血症のために
11月5日、46歳で、亡くなりました。
大阪市の地下鉄谷町線の谷町四丁目駅から歩いて10分足らず、難波宮跡公園の道路を挟んだ向かい側、住所で言うと上本町2丁目の交差点の角に大村益次郎卿殉難報國之碑があります。
この場所は、国立大阪病院の南東角でもあります。
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(シーボルトの娘と)
益次郎には、琴子さん(あるいは琴)という奥さんがいましたが、その一方で、オランダ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘の楠本イネともいい仲だったようです。
イネさんは、益次郎が襲われたとき、当時開業していた横浜から大阪まで駆けつけて、その最期まで看病したそうです。
大村益次郎の生涯を描いた大河ドラマ、これを見れば大村益次郎の事がわかります。
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