【後醍醐天皇:吉野 吉水神社看板より】
1336年12月21日、足利尊氏により花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が脱出して吉野へと向かい吉野に移ります。
(建武の新政敗れ吉野に)
鎌倉幕府を倒し、念願の天皇中心の政治である建武の新政を開始した後醍醐天皇でしたが、それも長く続かず1336年に足利尊氏が光明天皇(光厳天皇の弟)を即位させ、京都に攻めのぼってきます。
相次ぐ合戦で、楠木正成が湊川の戦いで自刃し、さらに新田義貞も戦いに敗れます。
足利軍が京都に入ると、後醍醐天皇は尊氏からの和睦を受け入れ、光明天皇に三種の
神器を手渡します。
その後、後醍醐天皇は幽閉されます。
しかし1336年12月21日夜・・後醍醐天皇は女装して脱出し、金峯山の僧侶たちがいる
吉野へ向かいます。
吉野は、地理的条件をみると金峯山を中心として山に囲まれた自然の要害であり、周囲の勢力分布の点から見ると後醍醐天皇側近の北畠氏がいる伊勢、楠木氏がいる河内に
近い場所でした。
後醍醐天皇は吉野の吉水院(吉水神社)に入り、その後、蔵王堂近くの実城寺を仮の宮とし、朝廷を開きます。
こうして、吉野にもう一つの朝廷=南朝が誕生する事となりました。
南北朝時代の始まりです。
こうして始まった南北朝時代は、1392年の南北統一まで、
日本という1つの国に2人の天皇がいて2つの朝廷があり2つの元号がある・・という時代となります。
【吉野朝廷について書いたブログはココ】
吉野朝廷から少し歩いた吉水神社。ここには、かつて南朝の皇居が置かれていました。
【南朝の皇居について書いたブログはココ】
吉野にはその後、京都奪還を願いながらもその夢はかなわず1339年8月16日吉野宮にて52歳で崩御します。
【後醍醐天皇陵について書いたブログはココ】
吉野と南北朝時代の関係はここにまとめています。
(お勧め本)
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ということで、12月21日は
後醍醐天皇が脱出して吉野に向かった日です