1905年(明治38年)3月10日、
日本軍の勝利で終わります。
(日本絶対不利の前予想で始まった日露戦争)
1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争は、当時五大強国の1つのロシアと東洋の
小さな島国の日本との戦いであり、国力の差から判断して、日本の勝利を予測する国は少なかったのです。
上は当時の日露戦争の風刺画です。
大きな男、しかも手を後ろにした状態で余裕をかませている男(ロシア)に挑む
細くて小さな男(日本)が描かれていて、当時の国際情勢および日露両国の国力の差が
わかります。
(奉天大会戦)
日露開戦後、日本軍はどうにか勝利を続け優勢を保っていましたが、すぐに財力、
国力が疲弊し、戦争の継続自体が危うい状況になっていました。
開戦翌年の1905年2月、陸軍はロシアとの総力戦を挑みます。
日露双方の兵力が衝突した最大・最後の陸上戦となる奉天大会戦です。
2月21日から3月10まで18日間、大山巌 率いる日本陸軍 24万人とクロパトキン率いる
ロシア陸軍36万人との合計60万人が中国東北部の満州で戦いました。
この時、陸軍を率いていた大山巌は「本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん」と訓示しています。
(3月10日午後奉天入場)
3月1日に全軍総攻撃が始まり、凄まじい戦闘が続きますが4日には日本軍は食力が尽き始め、激闘と飢えの2つと戦いを強いられます。
7日に、ロシア軍の一角が退却を始めたものの全体では強硬な抵抗が続いていました。
また、兵力に勝るロシア側は退却においても日本軍の追撃を許さず、迂回して包囲を試みた第三軍を防ぎます。
日本軍は当初予定していたロシア主力軍壊滅はできませんでしたが、3月10日午後、
第二軍の一部が奉天城内に突入し、奉天大会戦は終止符を打ちます。
1週間に及ぶ戦闘では、日本軍7万人、ロシア軍9万人の犠牲者が出ました。
日本側は奉天の戦いに勝利したものの、兵員不足・砲弾・物資不足に陥り、北方へ退却するロシア軍に対して追撃を行うことは不可能であった。
しかし日露戦争の日本勝利を世界に認識させる大きな結果につながりました。
そして、日本軍が奉天に入場した3月10日は、陸軍記念日となりました。
・・・ということで3月10日は
奉天大会戦が行われた日です。