出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
旅順閉鎖作戦に参加していた
広瀬武夫海軍少佐が戦死します。
そして広瀬は日本初の軍神となります
日露開戦後、世界最強と謳われたロシアのバルチック艦隊と旅順にいる太平洋艦隊(旅順艦隊)が合流した場合には、日本側が圧倒的に不利となると判断していました。
そのため、旅順艦隊を旅順港に閉じ込めて合流できなくする旅順港閉塞作戦が立案されます。
そして旅順港の入り口を中心に汽船を沈め、旅順港に停泊するロシアの旅順艦隊を出撃させないように旅順港閉塞作戦が展開されます。
(広瀬武夫)
広瀬武夫は大分竹田の出身で1889年(明治22年)海軍兵学校卒業。ロシア語もでき、ロシア留学経験もあり、またロシア国駐在武官としてドイツ・フランス・イギリスを視察します。日露開戦により戦艦朝日の水雷長として出征します。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
下は出撃前に広瀬が書いた遺書です。
(広瀬死す、日本初の軍神へ)
3月27日、広瀬は旅順港第二次閉塞作戦に参加します。
このとき、閉塞のために自爆させた福井丸から離れる際に、部下の杉野孫七兵曹長の姿が見えないことに気がつきます。そこで広瀬は杉野を探すために自爆で沈もうとしている福井丸に1人で戻り、「すぎのー すぎのはどこだー」と叫びながら船内を捜索しますが、杉野の姿は見つかりません。
時間が押し寄せるのでやむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、ロシア軍の砲弾の直撃を受け戦死します。35歳でした。
この戦死で海軍は広瀬を海軍少佐から中佐に昇進させ、また日本初の軍神となり国民的英雄となります。
路面電車や歩く人の大きさからこの広瀬像の大きさがわかると思います。
(1911年(明治44年)刊行「東京風景」 国立国会図書館ウェブサイトより)
(文部省唱歌に)
広瀬は歌にもなります。
その1つ文部省唱歌「廣瀬中佐」という歌があります、これは1912年(明治45年)に
登場します。
作詞作曲不詳。
★著作権が失効していますので全部の歌詞を記述します
- 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」 - 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
- 呼べど答へず、さがせど見へず、
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し - 今はとボートに 移れる中佐、
飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど
海軍の連合艦隊は旅順港閉塞作戦を三次にわたって行いますが、いずれも十分に封鎖するに至りませんでした。
・・・ということで3月27日は
そしてその後広瀬は日本初の軍神となります。