まずは、尼港事件で犠牲者となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
ロシア極東部、ハバロフスク地方にあるニコライエフスク=尼港で日本人捕虜などが殺害される事件=
尼港事件の発端がおきます。
(尼港市に日本軍が駐留したわけ)
ニコライエフスクは、ロシア極東部、ハバロフスク地方のオホーツク海河口にある都市でロシアの太平洋側、樺太の北端に近い場所です。
昔はここを尼港(にこう)と呼んでいました。
事件当時、ロシアの地だったここ尼港には1万7千人あまりが住んでいました。
そのうち日本人は日本陸軍の二個歩兵中隊の約260名と、その家族の婦女子440名の合計700人でした。
当時の尼港、×印は日本領事館
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
(シベリア出兵でこの地に残留)
なぜこのロシアのこの地に日本軍が駐留していたかというとロシア革命の影響です。
1917年(大正6年)にレーニンが主導しロシア革命が起きますが、旧ロシア国内の各地が無政府状態になってしまいます。
特にシベリアでは、革命で解放された囚人たちが「共産パルチザン」をとして、民家を襲い、食べ物や財物を奪うなど各地で無法な行動や殺戮を繰り返し無法状態になります。
ロシア革命成立当時は、シベリアのオムスクに樹立されたオムスク政権でロシア極東総督ロザノフ中将や、コルチャック提督などがパルチザン化したゲリラと戦っていました。
そのため英米日の三国は、内戦状態が続くシベリアでの市民安全の確保のため、1918年(大正7年)8月から、シベリアに派兵します。
ところが軍を派遣した翌年1919年(大正8年)にシベリアのオムスク政権が、武装した共産パルチザンの攻撃で陥落し皆殺しにされ、地域は無政府の野放し状態に陥ります。
こうしたなか、イギリス、フランスは軍事干渉を中止しアメリカも1920年(大正9年)1月に日本にシベリアからの撤退を宣言し4月に撤退を完了させます。
距離的に近い日本はシベリア総督府が倒れたあとの日本居留民の安全確保と日本本土防衛上に必要という点から、第十二師団(約1万5千名)をシベリアに派遣しました。
しかしながらシベリアは広大なので師団の兵士達は、分散され、結果として尼港には、わずか二個中隊260名が駐屯することになります。
(共産パルチザンが尼港を包囲)
1920年(大正9年)1月29日、、ロシアのトリビーチンを首領とする約4千人の共産パルチザンがいきなり尼港市街を包囲します。
トリビーチンを含めたパルチザン幹部の写真がありました。トリビーチンは下の写真の中央で肘をついている白服の男性です。隣は奥さんです。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
共産パルチザンは市内に入るや、市民への虐殺、強奪し、婦女子の強姦・虐殺を繰り広げ、たった一晩で、ロシア人とユダヤ人約2500人が虐殺されたと言われています。
このような状況の中、在留邦人たちは尼港を脱出しようとしますが、冬季で周囲は凍っているし、尼港の街は、共産パルチザンによって包囲されています。
そこで日本軍1個大隊と700人余りの居留民が、約4000のパルチザンと休戦協定を結びます。
(日本軍決起するも・・)
極寒のシベリアで、完全に孤立していた日本軍は3月12日、ロシア革命記念日で祝日にあたるこの日に、タイミングを狙い、協定を破り深夜にパルチザンの司令部を襲撃します。 この襲撃には在留邦人1200名も義勇軍を組織し伴に戦います。
しかしパルチザンはこの日本軍を撃退し日本側は多数の死者を出します。
結局、日本人居留民・将兵ら推定700余人が殺害され,122名が捕虜となりました。
下の写真は「第一陣地となれる日本兵営」と書かれています。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
(残虐の限り)
後に当時の状況を調査した記録によると・・・・
共産パルチザンたちは、子供を見つけると二人がかり手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女性は強姦し、両足を二頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していたそうです。
こうして義勇隊110名と、逃げ遅れた日本人約100名が犠牲となりました。
日本領事館にも日本人が逃げ込みますが、13日、共産パルチザンが包囲します。
領事館に立てこもった日本軍との間で、戦闘が一昼夜続きます。
下の写真が尼港日本領事館です。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
そして一昼夜が経ったあとに生き残った石川海軍少佐や石田領事やその家族など28名全員が領事館に火を放ち自決します。
下の写真は、石田領事とその家族、さらに領事館職員の記念写真です。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
焼け落ちた領事館の写真です。見る影もありません・・・。
この時点で尼港には河本中尉率いる別働隊と、領事館に避難しなかった民間人121名だけとなりました。
(偽の降伏文書で捕虜にして強制労働)
共産パルチザンは河本中尉の上司が命令したという降伏文書命令を偽造し、河本中尉にそれを受け入れさせ、生き残っていた121名も全員投獄されました。
下の写真がその牢獄です。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
捕らえらえた日本人は獄中、満足な食事も与えられずに、日本から来る救援軍を迎え撃つための防御陣地を作る土木作業に駆り出されます。
そして、陣地が完成すると、もう用が済んだので手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られたまま、凍ったアドミラル河の氷の穴に生きたまま放り込まれ殺されたそうです。
また日本からの救援部隊がまもなく到着するとの知らせを受けた共産パルチザンは、
5月14日に、中国人の妻妾となっていた14名以外の、生き残った日本人全員を殺害し、さらに退却するときに尼港の街に火を放ちます。
下の写真は焼け野原になった尼港の風景を撮影したものです。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
(「大正九年五月二四日午後十二時を忘れるな」)
春になって日本から援軍として派遣された旭川第7師団の多門支隊が、ようやく現地に到着した時、尼港は焼け野原と化した死臭が漂っていたそうです。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を抜粋して使用】
ここで中国人の妻妾となったことで何とか生き延びた女性たちの証言から、尼港での
蛮行が明らかになりました。
それによると、
生きたまま両目を抉り取られ、五本の指をバラバラに切り落とされたり、女性は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されたそうです。
日本人がとらえられていた獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
なんともむごたらしい・・・。
そして、獄舎の壁には鉛筆書きで、「大正九年五月二四日午後十二時を忘れるな」と
書かれてました。
【デジタル国会図書館「幕末・明治・大正回顧八十年史第20輯 」
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8797976/18)の写真を加工して使用】
この尼港事件に関して1920年(大正9年)7月22日に発行されたサンフランシスコの
邦人向け新聞「新世界」に顛末がまとめてあります。
(アジア資料センターShin Sekai 1920.07.22 — Hoji Shinbun Digital Collectionの
「新世界」より「尼港事件」の記事を抜粋しました。また1923年より前に発行された
新聞はパブリックドメインと理解しております)
(その後)
この一連の尼港事件に関し、革命政府はパルチザンの責任者を処刑しましたが,日本政府は賠償を要求して北樺太を占領します。
結局、1925年(大正14年)1月20日に調印された日ソ基本条約附属公文においてソビエト政府が日本政府に遺憾の意を表明し,日本側も北樺太占領を解除し、ようやく解決します。
尼港事件で犠牲者となられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
【尼港事件に関して書かれた書籍】