上の写真は、9月24日、西郷隆盛が自決した場所に立つ石碑です。
西南戦争は、1877年(明治10年)に薩摩藩の西郷隆盛を中心にした士族による大規模な反乱です。
「乱」ではなく「戦争」と表現していることが、その規模の大きさを物語っているように、この戦いは、日本史上最大規模でかつ最後の武士の反乱で、現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において戦闘が繰り広げられました。
おっさんは1990年(平成2年)から4年間、仕事の関係で宮崎市に住んでいましたが、
宮崎県の北部に行くと西南戦争で西郷軍が立ち寄った場所があり、当時薩摩軍が発行していた紙幣・西郷札を見ました。
また、おっさんのひい爺さんは熊本県北部の玉名市という町に住んでいましたが、西郷軍がもっとも北上した場所での戦いである高瀬川の戦いを見たそうです。
(反乱の背景)
明治政府は士族に対し、1876年(明治8年)には「廃刀令」と「金禄公債証書発行条例」という刀や俸禄が無くなる法律を施行し武士の特権を奪っていきます。
当時の士族の大半は下級武士で、明治政府の政策で経済的にも精神的にも追い詰められます。そのため、政府に対し不満を抱き、九州を中心に各地で士族の反乱が起きました。
(西郷軍決起)
1877年(明治10年)薩摩で、不平士族が、職を辞して帰省していた西郷隆盛を指導者にして蜂起します。西南戦争の始まりです。
明治政府は、西郷軍反乱の知らせを受けると陸軍の山縣有朋と海軍の川村純義に討伐を任じ、有栖川宮熾仁親王が討伐総司令官に任命します。
そして徴兵された農民を中心に形成された政府軍と不平士族からなる薩摩軍が対戦します。
(薩摩軍北上す)
薩摩軍は薩摩から北上し熊本県に入り熊本城、さらにその北部の田原坂などで攻防を
繰り広げます。
田原坂での攻防は17日間続き、士族で鍛えられた薩摩軍が白兵の切込みを行うと、戊辰戦争で戦いで薩摩に恨みを持つ会津周辺の警察官たちが「薩摩にくし」で集まって抜刀隊を志願し対抗し、切込みが繰り広げられるなど生々しい攻防が続きます。
やがて戦いは兵力・物量に勝る官軍に次第に有利に進み、薩摩軍は各地で敗走します。
敗走する西郷隆盛の一行は九州の山を越えて鹿児島を目指し、9月1日、再び城下に戻ります。
最後の五日間は、洞窟で過ごしたと伝えられています。
9月24日午前4時、政府軍の総攻撃が始まります。
薩摩軍は岩崎口に進撃しますが、西郷は股と腹に被弾し諦めて自決します。
下の写真は、西郷隆盛終焉の地に立つ石碑です。「南洲翁」とは西郷隆盛の事です。
西郷の死により西南戦争は終わりました。
この戦争を最後に武力による士族の反乱はなくなり言論による政治改革の動きが高まっていきます。
・・ということで9月24日は、