冬限定の特別公開をしていたので行ってきました!
(正伝院と永源庵が合体し建仁寺正伝永源院に)
建仁寺正伝永源院は、かつては正伝院と永源庵という別々の寺院でした。
正伝院は、鎌倉時代に中国から来日した僧 義翁紹仁が開山し創建します。
1618年に織田信長の実弟 織田有楽斎(おだ うらくさい)によって再興され、有楽斎は茶室「如庵」を建立するなど、正伝院を隠居所として生涯を過ごしたそうです。
一方、永源庵は、室町時代に建仁寺三十九世 無涯仁浩が清水坂の辺りに創建した寺院で、熊本細川家の始祖である細川頼有の帰依を受けて繁栄しました。
明治維新が始まると建仁寺の寺領は大幅に削減され、寺となっていた永源庵の境内に正伝院が移転。永源庵が細川家の菩提寺であることから「永源」の名を紡ぐため現在の「建仁寺正伝永源院」と言う名前になりました。
この建仁寺正伝永源院には、
(信長の弟で文化人の織田有楽斎の墓)
大坂夏の陣後は京都の東山で隠棲生活を送り,風流人の道を歩み茶道の有楽流の祖となります。
実は、東京有楽町は有楽斎が、江戸の屋敷跡、数寄屋橋は、数寄屋を構えた近くで、今も地名が残っています。
その有楽斎の墓がこれです。
(福島正則の墓)
もう1つあるのが福島 正則の墓。
福島正則は、豊臣秀吉の家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」や「武断派七将」の筆頭として
知られる武将です。
福島正則は、室町時代の末期1561年、尾張国海東郡に生まれます。
母が豊臣秀吉の叔母であった関係から豊臣秀吉に家臣として仕えます。
福島正則は、ここで同じく秀吉に仕えていた加藤清正と知り合い、2人は親友となります。
1582年6月2日に起きた「本能寺の変」で織田信長が死去すると、6月13日の山崎の戦いで、豊臣秀吉と共に明智光秀を滅ぼし、500石の武将になります。
その後、賤ヶ岳の戦い・小田原の役・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで武功を挙げ、51万石の大名になります。
特に1583年に起きた「賤ヶ岳の戦い」では、「賤ヶ岳七本槍」(福島正則・加藤清正・脇坂安治・平野長泰・加藤嘉明・片桐且元・糟屋武則)の1人に抜擢され、一番槍として、敵将「拝郷家嘉」(はいごう いえよし)を討ち取ります。
1599年に大将として朝鮮へ出兵する予定でしたが、前年に豊臣秀吉が病死したことで中止となります。
(石田三成と対立)
その1599年、朝鮮出兵における意見の対立によって、石田三成と対立します。
そして石田三成を暗殺しようとしますが、徳川家康に説得され中止します。
1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康が率いる東軍に参加し、先鋒の主力部隊として「西軍」最大部隊を率いる宇喜多秀家を攻め込み東軍の勝利に大きく貢献します。
福島正則は、安芸国、備後国の2ヵ国49万8,000石の大名となります。
このとき福島正則は、世の中が豊臣から徳川に変わったことを知ります。
1615年に起きた大坂冬の陣・翌年の夏の陣では、福島正則は豊臣秀頼への協力を求められますが、これを拒絶し、この戦いで豊臣家は滅亡します。
(広島城の無断改修で没収)
1619年、福島正則は台風で壊れた広島城の修理を幕府に要請しますが、幕府はいっこうに聞いてくれません。そこで幕府に無断でお城の改修を行ないます。これが「武家諸法度に違反する」ということで、領地や屋敷が没収されます。
福島正則は安芸・備後49万8,300石から越後国魚沼4万5,000石へと移されます。福島正則は、家督を次男の「忠勝」に譲り隠居しますが、忠勝が亡くなったため、2万5,000石を返上しました。そして、1624年64歳で病死します。最後は寂しい晩年だったようです。
この福島正則と家臣の墓が京都の建仁寺正伝永源院にありました。
(福島正則の墓は他にも・・)
福島正則の墓は各地にあり、ここ、永源院のほかに
同じ京都の海福寺、福島正則の遺体を葬った長野県小布施市にある岩松院、正則の菩提寺として有名な愛知県あま市にある曹洞宗のお寺菊泉院、にもお墓があります。
また東京都港区にある臨済宗妙心寺派のお寺正覚院には正則を供養するために建てられた供養墓があります。
【建仁寺正伝永源院公式HP】
<<建仁寺正伝永源院への行き方>>
住所:京都府京都市東山区小松町 大和大路通四条下る四丁目 小松町586
建仁寺正伝永源院は「京の冬の旅」で特別公開中。