京都に行ったときに
天下分け目の関ヶ原の戦いで敗れた
石田三成のお墓を偶然見つけました。
(大徳寺)
石田三成のお墓があったのは京都市北区にある臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭(たっちゅう)の三玄院(さんげんいん)です。
大徳三玄院は、大徳寺本坊の西にあり1589年に豊臣政権五奉行の石田三成、浅野幸長、森忠政の3人によって創建されました。
(出世ロードを歩んだ石田三成)
石田三成は、豊臣秀吉の家来として採用され、才智で頭角をあらわし最年少で奉行に
昇進します。そして諸大名と秀吉の取り次ぎ行う行政職として活躍します。
しかし諸大名への内政干渉が多いことから不満の声が上がり、また、朝鮮出兵の時には、対立していた加藤清正らを一時失脚させたことから有力大名達からの反発を食らいます。
そのため1599年には、福島正則や細川忠興などから暗殺されそうになり、その後、五奉行の辞職に追い込まれます。
石田三成は、1600年、豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原合戦で徳川軍に敗れ逃走しますがやがて捕まり、10月1日に京都の六条河原で斬首されました。
斬首された首は三条河原に晒された後、三玄院に葬られました。
徳川家の三成に対する怒りはすさまじく、三成の生地湖北の石田村にある先祖の墓石も破壊し、さらに石田三成自身の墓を作る事も許しませんでした。
そのため三成の墓は、土に埋められたままでした。
(死後300年後。石田三成の墓が発見)
関ヶ原の戦いからちょうど300年経った1900年(明治33年)、関西の実業家朝吹英二氏が、三成が生前に京都大徳寺の高僧春屋と非常に親しかったことに注目します。
さらに、墓地の中に「触ると祟られるため人が決して近づかない墓が一つあり、それには文字が一切刻まれていない」との情報を得ます。
そして住職の許可を得てその墓を掘ると土中から直径60cmほどの茶褐色の大瓶が出土し、中から頭蓋骨が出てきました。その頭蓋骨の形は三成の肖像画の頭と同じ形だったそうで、頭蓋骨は改めて埋葬されたそうです。
(三玄院は非公開)
「おいおい三成の墓の写真がないじゃないか!!」と声を上げたお方、その通りです。
三玄院は、非公開で、特別公開もない拝観謝絶の寺です。
外観のみの見学になります。
(天下人に反逆した者の扱い・・)
天下を取った家康に逆らったため長い間、ないがしろに扱われた石田三成。。
飛鳥に行ってみたら、馬子の墓と言われる石舞台古墳はむき出し、入鹿首塚は説明書も何もなく野ざらし状態でした。
<<大徳寺・三玄院への行き方>>
最寄りのバス停・・・大徳寺前下車徒歩約5分
大徳寺を訪れる機会がありましたら天下人になれなかった石田三成の墓を
是非御覧下さい、