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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレ,あらすじ 43話「関ヶ原の戦い」

11月12日放送予定の「どうする家康」
第43話「関ヶ原の戦い」です。
徳川家康石田三成・・ついに決戦のときを迎えます。
では、あらすじを見て行きましょう。
(腹の探り合い)
家康は、挙兵した石田三成と戦うことになりました。
その三成は、大垣城で、総大将となる毛利輝元や、秀吉の遺児・豊臣秀頼を待ちながら籠城していました。
一方、家康軍では、福島正則が、すぐにでも大垣城を攻めるべきだと意気込みます。
しかし秀忠軍がまだ到着していません。
秀忠は今回が初陣で徳川本軍3万の兵を預かりましたが、真田の作戦に見事にはまり、到着が大幅に遅れていました。
このままでは、家康軍が数の上では圧倒的に不利です。そこで家康は、各大名たちに調略をしかけて寝返らせ、なんとか味方の数を増やそうとします。

その調略を担当した黒田長政によると、「小早川秀秋毛利輝元に調略を繰り返しているが、蓋を開けてみるまでどうなるか分からない」ということでした。

(大垣城を放置)
結局、家康は秀忠の到着を諦め大垣城を放って行くことにします。
この時点で、関ケ原の地にいるのは、大谷吉継だけで数が少ないので、このまま家康軍が西へ進めば、三成たちは援軍のため城を出てくるはずです。
しかし、この方法は危険です。後ろを三成に塞がれ、さらに小早川や大阪からの軍勢が敵に加われば、家康軍は包囲され袋のねずみとなります。
家康は「それが三成の狙いであろう。」とそれも予測済のようです。

その夜、徳川の軍勢がゆっくりと西に動き始めます。
それに呼応した形で、大垣城に籠もっていた三成の軍勢が、城を出てます。関ケ原で、徳川勢を迎え撃つつもりです。
夜が明けると雨は上がり、山々に囲まれた平原は深い霧に包まれていました。

(対峙)
1600年9月15日。天下分け目の関ヶ原の戦いの日です。
両陣営あわせて15万の兵が関ヶ原に集結しました。
家康の東軍は、関ケ原の東にある小さな丘、桃配山に構えます。
対する三成の西軍は、関ケ原の北西にある笹尾山に陣を敷き、島左近や薩摩の島津義弘らが周囲に着陣したため、徳川勢を取り囲む形となりました。このまま戦に突入すれば、東軍の敗色は濃厚でした。 
これは三成軍が圧倒的有利ですが、混成群からなる10万の大軍勢の統率をとり、自由に指揮することは至難の業です。

一方、家康は、これまで多くの戦を経験したからなのか、このような状況にありながら落ち着いていました。そして「わしは感じるぞ!先に逝った者たち、いまは遠くにいる者たち、その心が皆、ここに集まっていると。」と言います。これは、経験の差、あるいは悟りの境地でしょうか?

(開戦、様子伺いする大名たち)
関ヶ原を覆っていた霧が晴れてきました。
徳川家臣の井伊直政が先陣をきり、それに続いて、他の者達も次々と戦いに参加しました。

戦いの序盤は、三成の計算通りに事が進み西軍優位で進んでいました。しかし、三成側につくと計算していた大名の中には、いまだ戦いに参加しようとしない者たちもいます。彼らは、状況を見極めて、有利なほうに味方しようというのです。

 その1人が小早川秀秋。大軍を抱える彼は、まだ動く気配がありません。どちらに転ぶべきか、慎重に機を伺っていまするようでした。

小早川同様に、毛利も動きません。そんな毛利に、茶々はいらだち、この戦に秀頼を出陣させると言います。
その茶々のもとを、家康の側室・阿茶が訪れ、秀頼はこの戦では東西両軍のどちら側にもつかないのがよいと進言します。しかし、茶々はこれを身の程知らずの態度だと怒ります。

(前に出る)
やがて家康は、「敵に時を与えてはならぬ。今この時、一気に勝負をかける!行くぞ!」と言い、秀忠を待たずに、自らが率いる2万の主力を三成の前に押し出すことを決断します。
そして家康は、小早川秀秋が陣を敷いている松尾山を見上げ「逆なでするな。天に向かって空撃ちせい」と命令します。
その命令に従い鉄砲隊が空に向かって一斉に空砲を放ちました。

この銃声で小早川が決断します。東西どちらの軍に着くべきか思案していた小早川の大群は、この銃声で寝返りを決断し、山を駆け下りて三成側の大谷吉継の陣へと突入します。

目のまえで繰り広げられるこの小早川の突然の寝返りに対し、茫然とする三成のもとに、他の大名の寝返りの報告が次から次へと入ってきます。

攻撃を受けた大谷吉継は自害、さらに、西軍の主力の1つ、小西勢も総崩れします。
ちなみに大谷吉継は自害するときに、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と言い切腹したと言われています。これは、「三年の間に必ずやお前を祟ってやる」と言う意味で、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡したという説があります。[

こうして、裏切りが相次ぎ形勢不利となった西軍の大将の三成は静かに戦場を立ち去ります。

さて、天下分け目の関ヶ原の戦いは、家康側の勝利に終わりました。そこへ島津の軍勢が向かってきます。この知らせを聞いた家康は見逃すように言います。しかし、井伊直政がしまぐの軍勢を追いかけているとの知らせが入り、本多忠勝が止めに入ろうと急いで馬を走らせます。
直政は鉄砲に撃たれ倒れますが、腕の怪我だけで済みました。直政は駆け付けた家康に「殿.ついに天下を取りましたな。おいらのおかげだ。これから先が楽しみだ」と言います。

関ヶ原の戦いは8000人以上の死者を出して終結しました。敗れた西軍についた各大名には、それぞれに処罰がされました。
ただ、これは最近の風潮かもしれませんが、合戦などの戦闘シーンが物足らないんですよね。自害するシーンとか首を斬られるシーンとか殺害されるシーンとか昭和の大河ドラマに比べると、シーンそのものが少ないし、ナレーション死や字幕死が多いんですよね。

(対面)
西軍の大将・三成は、敗走した物の近江国伊香郡古橋村(現在の滋賀県)にて捕らえられ、関ヶ原の戦いから8日後、家康と三成は対面しました。

家康は「戦なき世で出会いたかった。」と三成に言います。
これをうけて三成は「これは我が信念によってなしたること。その志、今もって微塵も揺らいでおらぬ。」と答えます。
さらに家康が、なぜ戦なき世をともに作ろうと夢見た三成が、8000人も死者を出す戦を起こしたのかと問います。すると三成は「戦乱を求むる心が自分にもあっただけ」と答え、さらに、その心は家康にもあり、乱世を生き残る家康こそが戦乱を求むる者だと挑発します。
さらに「戦なき世など成せぬ。まやかしの夢を語るな!」と吐き捨てます。
その三成に、家康は「それでもわしはやらねばならぬ」と答えます。

その後、石田三成は京の六条河原にて41年の生涯を閉じました。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は京都の三条河原に晒された後、京都の大徳寺 の三玄院に葬られました。
実は、その石田三成の墓に行った事があります。詳細は下をクリックして御覧下さい👇