どうする家康、第32話「小牧長久手の激闘」。この世帯平均視聴率10・2%で前回から0・1ポイントアップでした。
第32話は羽柴秀吉と徳川家康の戦い・小牧長久手の戦いです。
しかし、タイトルの「激闘」と言う感じではなかったような気がしますが。。。
では,ストーリーを見ていきます。
(秀吉・家康対峙す)
楽田城に入った羽柴秀吉と、小牧山城に本陣を置いた徳川家康は、一里半の近さで対峙.
お互いの出方を伺い、にらみ合いを続けます。秀吉は家康より6才年上です。
10万という秀吉の大軍に対し、徳川軍にいる織田信雄は「あんな大軍にどうやって勝つのか。」といいます。
石川数正は「あれだけの軍勢、食わせるだけでも大変なことでございます。長引けば、我らに有利に。和議を結ぶにも有利になるでしょう。」と言います
しかし、他の家康家臣は、和議ではなく秀吉を撃退しようと意気込みます。
家康は「秀吉もあれだけの大軍、簡単には動いてこんであろう。」とみます。
すると本多正信は、秀吉の悪口を書いた札をあちこちに立て、怒らして軍の乱れを誘う案を提案し、家康軍はそれを実行します。
(悪口相手にせず)
その頃、秀吉の陣でも軍議が開かれ、その席には、秀吉の弟・羽柴秀長、加藤清正、
福島正則らが参加しました。
そこに、池田恒興と森長可が紙をもってやってきました。そこには、秀吉が「野人の子だ」とか「信長の恩を忘れた男」など悪口が書かれています。
秀吉が怒って、我を忘れて攻めてくることを狙った徳川の作戦です。
しかし沢山の悪口札を見て秀吉はその狙いを見抜き、怒ったら思うつぼだと意に返しません。
(新しい堀)
翌日、小牧山城では、またしても家康軍は新しい堀を作っていました。
その様子を見た秀吉側は、徳川軍が守りを固めることに必死であると思っていました。
両軍が対峙し、膠着が続く中、いくら待っていてもらちが明かないため、池田と森が、家康を引っ張り出すため「中入りの策」をもちかけてきました。池田と森が小牧山城に回り込み、岡崎城を攻めます。それを見た家康が岡崎城に助けに入ったところで、秀吉の本軍と挟み撃ちにするという作戦です。
秀吉は、「中入りちゅうのは、ええ策じゃねえ。本陣を減らしてしまう。無駄に兵を減らすのは、うまくねえわ。」と言いつつも他に策がないため、仕方なく中入りでいくことを決めました。秀吉は、池田・森勢を中心とした中入りの総大将を甥・羽柴秀次にしました。
(中入り)
天正12年4月6日、秀吉軍が動き出しました。
しかし本多正信は、秀吉軍の中入りを見破っていました。
「皆の者よ。今こそ、我らの手に天下をつかむときぞ。出陣じゃ。」4月9日未明に徳川軍は出陣しました。
そして、秀吉に中入り勢が家康軍に急襲されたことの報告がされます。秀吉達は徳川の本陣がやってきて、合戦がはじまっていることに、驚きます。
更に、武田の兵をまとめ上げた井伊直政率いる軍が攻めてきます。
秀吉は「堀じゃねえ。奴らがせっせと掘っていたのは、守るためのものではなく、密かに討って出るための抜け道じゃ。」と気がつきます。
榊原康政が指揮をとり作っていたのは、堀ではなく、うってでるための抜け道だったのです。
秀吉の中入り勢は、総崩れになり、奇襲をうけた池田恒興と森長可は討ち死にしました。状況が不利だと悟った秀吉は引き上げることを決めます。
(そう簡単に勝利を喜べず・・)
その日の夕方、小牧山城では勝どきが上がりました。そして、祝杯をあげます。織田信雄は、「徳川殿、ようやってくれた。これで秀吉に勝てる。我らの天下じゃ。」と馬鹿との丸出しで大喜びで家康の手を握っています。
勝利を祝う徳川軍ですが、石川数正は、「一つ戦を制しただけ。秀吉には勝てない」と家康に言います。
そして秀吉も、「総大将は家康でない」と勝負をあきらめてはいませんでした。
そうです、頼りにならない総大将・織田信雄がいたんです。秀吉はこの信雄に狙いを定めます。続く・・・