山口県徳山市に
日露戦争の陸軍の満洲軍総参謀で、
二百三高地の戦いで指揮をとり陥落させた
児玉源太郎の像がありました。
(徳山が産んだ英雄・児玉源太郎)
おっさんは、何度か人間魚雷回天の慰霊祭に参加していますが、式典会場の大津島に行くときは徳山港からフェリーに乗ります。
フェリー乗り場は徳山駅から歩いて10分程度の海沿いですが、その反対側の山沿いに
徳山が生んだ英雄・児玉源太郎の像がありました。
この児玉源太郎像は、地元徳山が生んだ英雄・児玉源太郎の顕彰を目的として作られ、2011年(平成23年)7月23日に徳山の児玉公園で除幕式が行われました。
【児玉源太郎とは・・】
出典:「児玉源太郎 宿利重一著:対胸舎 昭和13」
戊辰戦争に参加したのち、明治維新後は陸軍に入り、佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍して士族の反乱を鎮圧します。
1898年(明治31年)には植民地になって3年しかたっていない台湾の第4代総督になり、
台湾の行政指導を行い近代化に力を入れました。
1904年(明治37年)2月にはじまった日露戦争では満州軍総参謀長として陸軍の作戦を
指揮し、12月には旅順攻略を行い、翌年1月に旅順を陥落させます。
【旅順陥落はコチラをどうぞ】🔽🔽🔽
(児玉ケーブル)
児玉の功績の1つに「児玉ケーブル」といわれる海底ケーブルの設置があります。
九州 – 台湾間を日本独自で海底ケーブルで繋ぎ、さらに日英同盟が締結すると上海の
通信網に繋いでイギリスのインド・アフリカ回線と結びます。
これによって東京とロンドンまでの通信システムが構築されました。
この通信網は日露戦争時の情報戦で大きな役目を果たします。
日本に向かいロシアを出航したバルチック艦隊の動きや情報が、イギリスのインド・
アフリカ回線を通じて随時日本に送られました。
また児玉ケーブルは朝鮮半島と日本の間など、日本周辺にも張り巡らされていました。そのため朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦の「三笠」と東京の大本営が電信による通信が可能でした。
この通信では1分間で20数文字が通信でき、日露戦争では大本営との間で、常に情報や状況の把握、命令のやりとりが短時間で行われました。
(児玉文庫)
児玉源太郎の文化的功労としては、児玉文庫があります。
源太郎は日露戦争直前の1902年(明治35年)、私財を投じて、生家の地に「児玉文庫」という私設図書館を開設します。
当時、本はとても高価で購入できる人は限られていました。また図書館そのものが全国的に珍しい時代で大学図書館があったもののそれは関係者以外は自由に閲覧できませんでした。
そのような時代に、源太郎は故郷・徳山の教育や文化の向上をめざし私設図書館を
作り、地域の人々に開放します。これは「児玉文庫」と呼ばれ人々に親しまれました。
「児玉文庫」には世界情勢を知るために10社の新聞を置いてあり、蔵書数は1945年
(昭和20年)にはおよそ5000冊あったそうです。
この児玉文庫は、本の貸し出し以外に、遠方の人々への移動図書館も行いました。
また児玉文庫では展覧会などのイベントも開かれていたそうで当時としては画期的でした。
徳山の文化向上に大きく貢献した児玉文庫ですが、1945年(昭和20年)7月26日におきた空襲で消滅しました。
出典:「児玉源太郎 宿利重一著:国際日本協会 1942」
【児玉源太郎については以下の本がお勧めです】
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<<児玉源太郎の像がある児玉公園への行き方>>
人材育成にも力を入れた児玉源太郎。。
その生き方は、
もう少し周知されてもいいのでは・・と思いました。