【出典:「西住戦車長 昭和の軍神(昭和14年出版)6ページ:国立国会図書館ウェブサイトより西住戦車長 : 昭和の軍神 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
1928年(昭和3年)5月17日、
陸軍戦車長の西住小次郎が中国兵に狙撃され死亡します。西住は、
軍によって初めて公式に「軍神」と指定された軍人です。
(西住小次郎とは)
西住小次郎中尉(死後大尉に昇進)は、久留米戦車第一連隊の小隊長でした。
西住は、1937年(昭和12年)9月3日、日中戦争の第二次上海事変から徐州会戦まで、
八九式中戦車の戦車長として活躍し、戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加しました。
(八九式中戦車)
八九式中戦車は1920年代後期に開発された日本陸軍の戦車です。陸軍初の国産正式戦車であることから、イロハの「イ」を取って「イ号」とも呼ばれます。
下の写真はノモンハン事件での八九式中戦車です。
(中国兵に狙撃され死亡)
徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近で、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見します。
西住は、戦車の渡渉可能な場所を探すために戦車から降り単身で偵察をします。
このとき、背後から対岸にいた中国兵に狙撃されました。
撃たれた西住はすぐに部下により自身の戦車の中へと戻され衛生隊の応急措置を受け
止血しましたが、すでに手遅れでした。
そして午後7時30分ごろ、息を引き取りました。 享年24。
死後、西住は陸軍歩兵大尉に特進しました。そして後日、軍部から公式に「軍神」と
指定されました。
下の写真は、西住が亡くなる2か月ほど前の1938年(昭和13年)3月10日の陸軍記念日に、中国の南京で撮影したものです。南京は中華民国の首都でしたが、前年の1937年(昭和12年)12月に陥落しています。
【出典:「西住戦車長 昭和の軍神(昭和14年出版)6ページ:国立国会図書館ウェブサイトより西住戦車長 : 昭和の軍神 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)】
(軍神として国民の人気に)
西住は「軍神西住戦車長」などと言われ、彼を主人公にした雑誌や映画が作られました。また、西住が乗っていた1,300発の被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社に展示されました。
下の写真は西住を紹介した雑誌の記事です。
彼が乗っていた戦車には、たくさんの被弾痕があるのがわかります。
(軍公式指定「軍神」第一号)
戦前の日本では、日露戦争での功績で広瀬武夫中佐や橘周太中佐などが「軍神」と呼ばれ、国民から尊敬されていました。しかし軍部によって公式に「軍神」と指定されたのは、この西住が最初でした。
・・・ということで
5月17日は初めて軍が指定した軍神・西住小次郎が
戦死した日です。