東京港区と渋谷区にまたがる表参道。
しゃれたレストランやカフェ、高級服店などが建ち並び、流行最先端の街の1つとしてよくTVに登場する街です。
この表参道交差点の、みずほ銀行青山支店の手前に細長い黒い石の碑があります。
これは1945年(昭和20年)5月25日にこの一帯を襲った山の手空襲の慰霊碑です。
(山の手空襲とは)
首都東京の空襲といえば、1945年(昭和20年)3月10日に325機の米軍の爆撃機B29が
隅田川周辺の下町を襲った、いわゆる東京大空襲が有名ですが、それ以外にも終戦までに東京は130回に及ぶ空襲を受けています。
3月10日の東京大空襲の次に、大規模な空襲が山の手大空襲です。
東京大空襲のおよそ2ヶ月後の5月25日22時22分に空襲警報が発令されます。
やがて山の手地区に470機のB29が襲来し高性能焼夷弾3300トンを投下しました。
この焼夷弾の量は、東京大空襲の倍近い量です。また、高層のコンクリートの建物を
破壊するために貫通力の強い焼夷弾も使われています。
山の手大空襲で飛来したB29の数ですが、3月10日の東京大空襲の325機を上回る470機でした。
この山の手大空襲は被害を受けた地区は渋谷、青山だけでなく、杉並や世田谷、荒川や王子にも広がっています。
下記写真は5月25日夜間の広尾上空から米軍が撮影した写真です。
空襲の死者は3600余人、罹災者は約56万人、焼失は16万6千戸にも及び、国会議事堂周辺や東京駅もさらに皇居も被災し皇居内の明治宮殿はこの空襲で焼失しました。
(国際法違反の民間人殺戮)
この山の手大空襲は、当時の国際法違反の民間人=非戦闘員殺戮です。
米軍は3月10日の東京大空襲以前は、軍事施設や戦闘地域への爆撃や空襲を行っていました。しかし3月10日の東京大空襲以降、市民などの民間人殺戮を目標にした無差別爆撃の大規模空襲を日本各地に行います。そして、戦勝国になったため、国際法違反という罪は不問にされました。非情に理不尽です。
(山の手大空襲慰霊碑)
山の手大空襲では、赤坂・青山地域の大半が焦土となりました。表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が命を落としています。
表参道交差点にある、みずほ銀行青山支店は、空襲をうけた当時は「安田銀行青山支店」でした。この建物の前には空襲の遺体が積み上げられていたそうです。
現在、その場所には、山の手大空襲の慰霊碑があります。
この石碑には、和をのぞむ と言う文章が刻まれています。
全文を紹介します。
「太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
平成十九年一月
港区赤坂地区総合支所
区政六十周年記念事業実行委員会 」
(首都東京にとどめを刺した山の手大空襲)
山の手大空襲によって、東京は全市街地の50・8パーセントに当る56・3平方マイルを
焼失します。そして、焼き尽くされたと言うことで米軍の焼夷弾攻撃目標リストから
外されます。
(今も残る山の手大空襲の傷跡)
すさまじい空襲の惨劇の傷跡が表参道にある大灯籠に見られます。
この石灯籠の台座は黒ずんでいますが、これは、空襲で焼死した人たちの脂がしみこんだ物だと説もあります。
【総務省公式HP 山の手大空襲追悼碑】
<<山の手大空襲追悼碑への行き方>>
住所:東京都港区北青山3-6-12
多くの方が命を失った山の手大空襲を・・
現在は、それを思い出させる物も少なくなりましたが、
表参道で何が起きたかを忘れてはいけません。