日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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6月14日、糸満市字伊原の沖縄陸軍病院山城本部壕(サキアブ)の入り口に米軍が直撃弾を!

6月14日、ガマを利用した沖縄陸軍病院山城本部壕が
米軍の爆撃を受け
衛生兵や従軍していたひめゆり学徒隊の生徒が
命をおとしました。
米軍が医療施設を攻撃し死傷者が出たのです!

陸軍病院が移転)
沖縄戦が始まろうとしていた1945年(昭和20年)3月23日、沖縄県糸満市内の山城集落の東側にある「サキアブ」と呼ばれるガマに、山城の一部の住民が避難します。
4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、日米による地上戦が始まります。

同年5月以降、日本軍の撤退により、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、先にいた住民には出てもらい、この場所を病院本部壕とします。
そして、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲におきました。廣池文吉病院長などの首脳陣は、ここから分散した各外科壕に対し伝令や命令を送っていました。ここには南風原から脱出してきた、ひめゆりの少女14名もいました。彼女たちの主な任務は、各壕へ指令や伝令、および水汲みで、砲弾が飛び交う中、命懸けの伝令を行います。

(沖縄陸軍病院山城本部壕)
陸軍病院山城本部壕は今も中に入ることができます。多くの方が訪れる、ひめゆりの塔から車で5分、およそ1キロの畑の中を進むと、沖縄県糸満市字伊原の山城集落の東に、陸軍病院山城本部壕があります。
「沖縄陸軍病院本部壕跡」と刻まれた石碑があります。

地元ではサキアブと呼ばれているガマ=自然洞穴です。壕の周りが木に覆われていますが、その木々の間を抜けると壕へ続く階段があります。

ガマの中に入るので、運動靴と懐中電灯が必要です。中は暗いですし、足場も不安定な部分もあります。
では、中に入ります。

ガマの中は、入り口のある広場と奥の広場の二つに分かれています。
下の写真は、少し入ったところから入り口を見上げたものです。

壕口付近の広場は、マスクや脱脂綿、ガーゼや手袋など衛生材料置き場や、炊事場があったそうです。

ガマの奥には池の横に院長室があったそうですが、正直衛生的とは言えません。

薄暗いガマ、外では米軍の砲弾や銃弾が飛び交う中、この中でどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか・・・

(6月14日の爆撃で死亡)
沖縄陸軍病院山城本部壕は、6月14日に米軍の爆撃を受け、壕入り口が被弾し、衛生兵や従軍していたひめゆり学徒隊の生徒が死亡しました。
ここで、重要なのは病院への攻撃です。戦場での兵士同士の戦いではなく、米軍は病人や医師、医療従事者といった非戦闘員がいる病院へ攻撃を行ったのです。
(壕の近くには・・)
壕の近くには病院関係者43名を祀る慰霊塔「沖縄陸軍病院之塔」が建立されています。ここには沖縄陸軍病院勤務の関係者43名が祀られています。

また、その隣には、陸軍病院の元軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑が建立されています。
この歌がなんとも悲しいものです・・。

この沖縄陸軍病院山城本部は足を運んでほしいです。こんな場所が病院だったのです!!

やがて、沖縄陸軍病院山城本部壕(サキアブ)では、各壕への分散命令が出され、伊原第一外科壕や伊原第三外科壕(現在、ひめゆりの塔がある場所)に分散されます。
ちなみに伊原第三外科壕は、6月19日にアメリカ軍の攻撃を受け、ここ山城本部壕から移った6名全員が死亡します。

<<沖縄陸軍病院山城本部壕への行き方>>
これは車じゃないといけません
住所:縄県糸満市伊原279
駐車場:あり 駐車場から徒歩2分

・・ということで6月14日は
沖縄戦で沖縄陸軍病院山城本部壕(サキアブ)が
米軍の爆撃を受け、多くの方が命を落とした日です。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。