JR小倉駅の南口を出て、
マクドナルドの店舗の正面にある
エスカレーターのすぐ足元に石碑がひっそりとあります。ここは明治の文豪・森鴎外が住んでいた住居跡です。
(森鴎外の「最後の一句」)
森鴎外と言えば、「舞姫」や、「高瀬舟」「雁」「山椒大夫」「最後の一句」などを
書いた作家で、皆さんの中には国語の授業で習った人もいると思います。
【出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)】
おっさんは中学3年生の時に、「最後の一句」を授業で習いました。
「最後の一句」のあらすじを簡単に紹介すると、
知りあいの不正を被り無実の罪で死罪を命じられた父親を救うために、10歳だった長女・いちと兄弟たちが死刑を執行する大阪町奉行に出向き、「父の代わりに、自分たちを死罪にする」よう申し立てたてます。
ここで役人が「お前達はすぐに殺されるぞよ。それでも好いか」と問うと、いちは
「よろしゅうございます」と応え、さらに「お上の事には間違いはございませんから」と付け足します。
この「お上の事には間違いはございませんから」という10歳の女性の発言に、中学3年生だったおっさんはシビレました。正直「やられた!」と感じました。
この「お上の事には間違いはございませんから」というセリフは強烈なインパクトで、しばらくクラスの仲間たちと何か起きると「お上の事には間違いはございませんから」と皆で口に出していました。
また、同時に森鴎外の作品「山椒大夫」も読みました。これは安寿と厨子王の人身売買話でしたが、中学生のおっさんには、なんとも暗すぎる話でした。
さて、このような名作の数々を作り出した森鴎外ですが、東京大学医学部を卒業した、陸軍の軍医さんでもありました。
【出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)】
(軍医局長として小倉に滞在)
さて、その森鴎外は19899年(明治32年)年6月に、陸軍第十二師団軍医部長として
小倉に赴任します。
そして、現在の住所で言うと北九州市小倉北区鍛冶町に居を構え、途中引っ越しをしますが東京に戻る1902年(明治35年)3月まで過ごしました。
石碑があるこの地には、1890年(明治33年)暮れから住んだようです。
【引用:森鴎外京町住居跡碑案内板より】
また、住居跡碑には、以下のように書かれています。
ここで鴎外はアンデルセンの「即興詩人」のほかにもクラウゼビッツの「戦争論」を
翻訳したそうです。
<<森鴎外京町住居跡碑への行き方>>
JR小倉駅モノレール口から出て、3分ほど歩いて、マクドナルドの正面付近
小倉の繁華街にさりげなくある文豪・森鴎外の住居跡碑。
歴史があるんですねええ しみじみ・・