福岡県北九州市小倉北区にある手向山(たむけやま)という小さな山に
江戸時代初期に作られた宮本武蔵の顕彰碑があります。
高さ4.5メートルの石に文字が刻まれているこの碑は、小倉碑文とも呼ばれています。
また、これは宮本武蔵について書かれている一番古い文書だと言われています。
(息子・宮本伊織が建立)
この碑は、宮本武蔵の死から9年後の1654年4月19日に、武蔵の養子で小倉・小笠原藩
十五万石の筆頭家老だった宮本伊織が建てたものです。
碑の頂部に「天仰實相圓満兵法逝去不絶」十二文字の大文字が書かれています。
これは武蔵の遺言で、「天仰實相圓満(てんぎょうじっそう えんまん)兵法逝去不絶」で「天仰実相円満の兵法は逝(ゆ)き去するも絶えず」と読み、これを解読すると「天を仰げば実相円満、兵法逝去して絶えず」という 武蔵が到達した心境を表す十二文字だそうです。
その下に、漢文で武蔵の一代記が千百十一文字で書かれています。
武蔵の出生と死亡、そして京都の吉岡一門との一連の対決(清十郎、伝七郎、吉岡亦七郎)、関門海峡に浮かぶ巌流島での佐々木小次郎との決闘、二刀流を生みだしたことも刻まれています。
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(巌流島が見渡せる手向山)
伊織が書いた小倉碑文がある手向山は、福岡県北九州市門司区と小倉北区の境、
住所で言えば福岡県北九州市小倉北区赤坂4丁目にある高さ76メートルの山です。
その山頂からは、武蔵と小次郎が対決した巌流島が見渡せます。
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(宮本武蔵、簡単ストーリー)
宮本武蔵は、安土桃山時代に生まれ、若いころは日本各地を回って武者修行をします。
1604年には、京都の名門吉岡道場に果たし状を送り、吉岡一門を次々と倒し、ついに
滅ぼします。
1612年には、関門海峡に浮かぶ巌流島で佐々木小次郎を打ち破ります。
さらに1614年には大坂の陣に徳川方として参加しています。
1632年に入ると、養子の伊織が主君の小笠原忠真とともに小倉へ移封となったのに
あわせて小倉に行きます。
1637年に起きた島原の乱に出陣し、その後、熊本に向かい二天一流を開きます。
そして1645年に亡くなります。
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(毎年ここで「武蔵・小次郎」祭り)
手向山では、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島の決闘が行なわれた1612年4月13日にちなみ、毎年4月13日前後の日曜日に山頂の公園で、「武蔵・小次郎まつり」が
開催されています。
(軍の事情で移築された宮本家の墓)
小倉碑文ができた頃は、宮本家代々の墓は武蔵顕彰碑の周辺に設置されていました。
しかし明治に入った1887年(明治20年)に関門海峡の守りのために手向山に下関要塞の手向山砲台が造られるなど山全体が軍事要塞化されていきます。
手向山は下関要塞司令部の管理下に置かれ一般人の入山が禁止されます。
すると同様に宮本家代々の墓も山の麓に移設されます。
ですから、今は宮本家の墓はこの手向山の麓にあります。
(関門海峡の守り・手向山砲台)
手向山砲台があった手向山には軍の施設が今も残っていて見ることができます。
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<<手向山公園への行き方>>
JR小倉駅から徒歩45分程度 バスで15分手向山下車、山頂には15分ほどで登れます
駐車場 有