日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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世界が称賛した軍人魂 1910年(明治43年)4月15日 第六潜水艇遭難事件

【出典:「噫佐久間艇長」 51ページ(大正15年発行)より 噫佐久間艇長 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)


1910年(明治43年)4月15日、
広島湾で海軍の第六潜水艇が遭難します。

この事故で乗組員14名全員が殉職しますが、
死の恐怖に直面しても取り乱すことなく、
修理をしていた2人を除く全員が
配置についたまま殉職したその姿が
世界に感銘を与えました。

 

(訓練のため岩国を出港)

1910年(明治43年)4月15日、海軍の第六潜水艇が岩国から広島湾に出航しました。
この第六潜水艇は、当時としては珍しい、我が国初のガソリンエンジンで潜航をする
潜水艇でした。
ちなみに当時、日本は9隻の潜水艇保有していて、7隻が欧米製で、国産が2隻、
第六潜水艇はその1つでした。

この出航は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出しての潜航運転の訓練をするためです。

訓練開始からしばらく経った午前10時45分頃、何らかの事情で、煙突が海面に出る高さよりも深く艇が潜航したため浸水が発生します。しかも閉鎖機が故障していたため手動で閉鎖するうちに、17m下の海底に着低しました。

救命捜索が遅れてしまい、乗組員全員の命が絶望されます。そして沈没した潜水艇は、翌16日にようやく引き揚げられました。

【出典:「噫佐久間艇長」 51ページ(大正15年発行)より 噫佐久間艇長 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

(軍人としての立派なふるまい)
潜水艇が引きあげられたあと、潜水艇内部の事故調査が行われますが、ここで海軍関係者はある不安を抱えていました。
というのは、この潜水艇内で死の恐怖に直面した乗組員たちが、我先に脱出を争い出口に向かうという悲惨な姿で落命しているのではないかと危惧したのです。

というのはこれには、前例があります。この事故の前にイタリア海軍でも似たような事故が発生し、このとき、乗組員たちは仲間を見捨てて自分だけは生き残ろうとする乱闘を行った挙句、ハッチには大量の死体が折り重なって発見されました。

そのため、海軍関係者は、第六潜水艇の乗員たちがこのような行為をしているのではないかと恐れていました。

 

しかし、ハッチを開けると、乗組員14人のうち12人はきちんと所定の配置についたまま息絶えていました。さらに所定の位置にいなかった2人は、命を落とす寸前まで修理にあたってい破損箇所で亡くなっていました。

つまり、乗組員14人全員が、死ぬ瞬間まで自分の任務をまっとうして死んでいたのです。

 

(沈勇 佐久間艦長)

この第六潜水艇の艦長は、30歳の佐久間勉でした。
事故後、佐久間艦長の衣服のポケットから一冊の手帳が見つかりました。
佐久間艇長が空気が不足し薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたもので、冷静に事故の原因、および経緯を調査し、沈没の原因や浮上のために尽くした手段、さらに事故発生の10時から絶命する12時40分までの艇内の様子などが39ページに
わたり、記されていました。
この佐久間艦長が克明に書いた手帳の内容は、その後の潜水艇の発達に大きく貢献します。

【上記2つは出典:「新聞集成明治編年史 第十四卷」(昭和15年出版)

新聞集成明治編年史 第十四卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

また、手帳には潜水艦を沈没させることと部下の命を失わせたことを謝罪し、部下の
遺族へ配慮を求める内容も記されています。

 

事故原因の分析や潜水艇の将来、さらに乗組員の遺族までを慮った佐久間艦長の遺書は、人々に感動を与え、佐久間艦長は「沈勇(ちんゆう)」と称えられました。

【出典:「噫佐久間艇長」 4ページ(大正15年発行)より 噫佐久間艇長 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

佐久間館長に関して以下のHPが詳細です。

 

(その姿勢に世界中が称賛)
死の直前まで職務を全うして殉職した佐久間艇長とその乗組員たちの姿が、
「これぞ軍人の鑑である」と賞賛を浴びます。
修身の教科書や軍歌、本にも取り上げられ、さらに海外でも評価されました。

 

佐久間館長は福井県出身と言う事で、1914年(大正3年)8月3日に、福井県小浜市
小浜公園が開園し、同時にここに佐久間館長の銅像が建てらえました。
しかし この像は戦時下の金属供出によって1944年(昭和19年)1月撤去され、のちに
2代目が建てられました。

【出典:「噫佐久間艇長」 49ページ(大正15年発行)より 噫佐久間艇長 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

死に直面しながらも、慌てることなく、すべての乗組員が冷静に任務にあたりながら
亡くなっていったこの事故は軍人の模範として、日本は勿論、英国海軍では本に掲載され、米国では国会議事堂で遺書の写しが展示されました。

 

4月15日は、死に直面しても軍人の姿勢を全うし
その姿に世界中が称賛した
第六潜水艇遭難事件が起きた日です。