(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/1 デジタル国会図書館)
ひょっとしたらライト兄弟よりも先に、
飛行機を発明したかも知れない・・
そういう人がいました。・・・
二宮 忠八(にのみや ちゅうはち)です。
(カラスはどうして飛ぶのか?)
二宮忠八は、陸軍に徴兵されていた1889年(明治22年)11月に、香川県の丸亀歩兵第十二連隊第1大隊での野外演習の昼食中に、滑空しているカラスを見ます。
そして空を飛ぶカラスが羽ばたいていないことに気付きます。
これを見た忠八は、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、羽ばたかなくても飛べることを発見し、1891年(明治24年)4月29日に「羽ばたかない」ことを形にした烏型模型飛行器を作成させ、丸亀練兵所で飛ばします。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/7
デジタル国会図書館)
この「烏型飛行器」は、陸軍病院に勤務していた忠八が、聴診器のゴム管を流用して、作ったゴムひもが動力になった四枚羽プロペラでした。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/7
デジタル国会図書館)
また、この飛行器は、車輪を備えています。ちなみに人類初のライト兄弟の飛行機には車輪がありません。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/7
デジタル国会図書館)
(玉虫型飛行器)
1893年(明治26年)10月1日には、有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成します。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版:https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/8
デジタル国会図書館)
(陸軍の理解を得られず、独学で研究するも・・)
さらに、忠八は、飛行器の研究開発をするよう陸軍の上司に協力を要請します。
しかし、明治中期の日本では、「空を飛ぶ道具」などは誰も予想がつかない事であり、忠八の話しに耳を傾けようとはしません。
飛行機の開発には莫大な資金が必要です。ちなみにライト兄弟は,多くの支援者やスミソニアン協会などからの資金援助がありました。一方、忠八には、誰も感心をよせません。
そのため忠八は飛行機開発に必要な莫大な資金や研究を、たった一人で続けることになりました。忠八は退役して就職し、独自で製作資金を作ることにします。
こうして幾星霜、1900年(明治33年)に京都府八幡市に居を構え、30歳代半ばで飛行機の制作をようやく再開します。
(断念)
忠八が飛行器の研究開発に没頭していた、1903年(明治36年)12月17日、忠八は、
アメリカのライト兄弟が飛行機を完成させ、飛行に成功したという情報を耳にします。
この知らせに、忠八は、大いに嘆き、飛行器の枠組みをハンマーで破壊し、以来、飛行機開発から一切身を引くのです。
誰もが縁向いてくれず、たった一人で地道に研究していたものの、先を越されてしまったのです。ああ、なんという不幸,不運・・・。
(意外な転身)
その後、忠八は、なんと神官の資格を取り、1915年(大正4年)に京都府八幡市の自宅内に私財を投じて飛行神社を創建します。そして、そこで飛行機事故で死去した多くの人を弔います。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版: https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/6
デジタル国会図書館)
(ようやく功績が認められる)
やがて、忠八の研究や功績は、1927年(大正15年)5月25日に、帝国飛行協会総裁の
久邇宮邦彦王から 有功章を受章するなど、ようやく認められていきます。
(出典:「二宮忠八伝」昭和19年出版: https://dl.ndl.go.jp/pid/1718937/1/5
デジタル国会図書館)
(思った通りの・・・)
晩年、忠八は陸軍のすすめで1度だけ飛行機に乗りました。そのときの忠八の言葉です。
「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見た。今初めて飛行機に乗った気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった。」
二宮忠八は1936年(昭和11年)、70歳でその人生を終えます。その翌年の新年度からは、忠八は国定教科書に掲載されました。
(英国が認定:ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見)
忠八の死から18年後の1954年(昭和29年)、英国王立航空協会は忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、忠八を「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しています。
さらに1991年(平成3年)には、彼の機体にエンジンが載せられ飛行実験が行われました。そして忠八の飛行器は200mの飛行距離をだします。ライト兄弟の初飛行の36mの6倍近い距離を飛んだのです。忠八の構想は間違っていなかったのです・・・。
タイミングや運、世間の理解などの巡り合わせがあれば、二宮 忠八という名前が、ライト兄弟に変わって
歴史に残していたのかもしれません。
今、忠八が創建した航空神社の脇には、
自身の銅像と彼が発案した飛行器が飾られています。