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大河ドラマ「どうする家康」 ネタバレあらすじ 27話「安土城の決闘」

どうする家康の第27話は「安土城の決闘」です。

 

ではストーリーを見ていきます。

1582年(天正10年)、、信長は、何者かに殺される夢をみてうなされます。コレは予知夢??

さて、その信長ですが富士の大遊覧でもてなしてくれた家康に対し、その返礼ということで、家康を安土城に招きます。

このころすでに家康は、妻子を殺害に追い込んだ織田信長を暗殺することを考えていました。

家康は家臣に「安土城では信長は殺さない。信長は、京にうつるはず。都は穏やかになり敵への備えは手薄。すでに、半蔵たちに調べさせておる。近頃、信長の宿は本能寺という寺だそうじゃ。ぬかりなく進めておる。信長を本能寺で討つ。」と告げます。

それを聞いた石川数正が「配下の者は、遠くにおる。秀吉は毛利攻め、柴田は北国、すぐにはかけつけられん。唯一やっかいのなは、明智。」と言うと家康は「奴を遠ざける策は、考えてある。異存反論は一切許さぬ。わしはもう誰も指図は受けん。誰にもわしの大切な者は奪わせはせぬ。」と明智光秀をはめる策を考えていることも示唆します。

 

(ウサギがオオカミより強いかも)

家康が安土城に行く準備をしていると浜松城を取り仕切っている於愛が息子たちを連れて挨拶にきました。

家康と於愛の間には、2人の子供がいて長丸は3歳、福松は2歳です。
長丸は家康の三男で、後の徳川幕府2代将軍・徳川秀忠。福松は家康の四男で、後の松平忠吉です。

信長にまねかれて行くと言うことは、ひょっとしたらその場で殺される可能性もあります。
家康は於愛に「ウサギはオオカミより強いと思うか」と尋ねます。

すると於愛は、「狼が強いに決まっております。でも、考えてみたら狼は強いけど数は減っています。兎はたくさんいて勝ち残っているのは兎でございます。案外、兎の方がたくましいのかもしれませぬ」。と答えます。これ、よく考えるとそうですね。こうして家康は信長が待つ安土城へと向かいます。

 

(安土での宴)

信長の居城・安土城は、要塞であり、また豪華なお城です。これは信長の力を天下に示すものでした。

おっさんも安土城に行ったことがあります。巨大な作りでした。

その様子は下をクリックして御覧下さい↘

安土城で家康をもてなしたのは明智光秀です。この時期、秀吉は、中国の毛利攻め、柴田勝家は、北国で上杉と戦うなど各地に散らばっていたので、結果として明智光秀

家康の接待係となったのです。

宴の席では、最高級の豪華絢爛な食材で作ったものが次々と披露されます。

淀川で採れた鯉の御前が運ばれてきたときに事件は起きました。
家康が鯉を口にしようとした瞬間、手が止まり鯉のニオイをかぎます。そして、食べようとしませんでした。それを見て同時に家康の家臣達も鯉のにおいをかぎ、箸を置きました。

光秀が「くさみはございません。日本一の淀鯉ですから。」と言うものの、家康は依然食べようとしません。

信長は、「臭うならやめろ、あたったら一大事だ」と言い、明智光秀を睨みつけ、そして皆がいる前で罵倒し殴ります。

 恥を掻かされた明智光秀は「三河のくそ田舎者が」と捨て台詞を残し出ていきました。

やがて、光秀は、家康のもとに謝罪に行きます。

しかし、これは家康が仕組んだ信長と光秀の分離作戦でした。

 

(ウサギとオオカミ)

その晩、信長は家康と2人きりで話したいと伝えてきました。家康が御殿におもむくと、信長が独りで酒を飲んでいました。

信長は、今回の光秀の失態に対し使えない者は切り捨てると冷酷です。信長は、父・織田信秀から、そういう行き方・考え方を叩き込まれていたのです。

そういう考えを持つ信長に家康は、「うちにも使えんのがようおります。それならそれでしょうがない。信じなければ、信じてもらえん。それで裏切られるなら、それまでの器だったのだと。」と言いますが、信長は「誰も信じるな。信じられるのは、己一人だ」と答えます。

 

話が平行線なので家康は「上様、京へ入られるのでございましょう。一足先に行って、お待ちしております。今後のことは、その時に。今宵はこの辺で。」と席を立とうとします。

すると信長は「京で待ち伏せして、俺を討とうとしているのか。やめとけ、お前には無理だ。白兎。腹の中を見せなくなったな・・・謝って欲しいか。妻と子供を殺して謝って欲しいか。くだらん。」と言います。

当然、家康は「妻と子供の死をくだらんと申すのか」と怒ります。

信長は「妻子を死なせてすまなかったと俺が頭を下げれば、気がすむのか?俺は謝らんぞ。人を殺めるということは、その痛み苦しみをわが身に受けるということじゃ。」と。

家康は「私には、あなたの真似はできん。したいとも思わん。わしは、わしのやり方で世を治める。たしかに、わしは弱い。弱ければこそできることがあるとわしは信じる。行き詰っておるのは、お主ではないのか。弱き兎が狼を食らうんじゃ」と、

信長は「なら、やればいい。本当にわしの代りをやる覚悟あがるなら、俺を討ってやってみろ。」と言います。

さらに「数えきれないほどの命を奪った報いは、いずれ必ず受けるだろう。俺はかまわん。だが、お前には無理じゃ。わしを支えるのが精いっぱいじゃ。」と、大喧嘩です。

でも普通に考えたら、近くに信長のお付きの人がいて止めるのでは??

 

 (本能寺)

やがて家康一行は京都の茶谷四郎次郎宅へと向かいます。ここには、半蔵が集めた信長に恨みを持つ忍び500人、さらに、四郎次郎の財力で購入した武器も取り揃えていて、信長を討つ準備は万端です。

一方、毛利征伐中の秀吉と秀長の陣では、秀吉の弟の秀長が、これ以上いくさが長引けば上様がどう思うかと心配していました。すると秀吉は「そろそろおらんくなってくれんか」と危ない発言。しかし自ら手を下す気はなく、引き返す用意だけしておくように言います。

 

1582年(天正10年)5月29日、信長はわずか100人ほどの兵を連れて安土城をたちました。
そして6月2日夜、本能寺が炎に包まれます。「徳川が織田の首を取って逃げている!と言う人もいます。いったいどうなったのか・・・話は次回に続きます