日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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日本軍は戦闘機や高射砲などでB29を485機撃墜しています。B29に対し日本軍が全く無力だったという訳ではありません

日本中を空襲して焼け野原にしたB29。
しかし
統計を見るとB29に対し日本軍は、まったく無力で
何もできなかった
訳ではないようです。
B29は485機が撃墜、破損は2707機、
戦死者は3044人でした米国戦略爆撃調査団の統計)


※ただ、空襲に来た機数、撃墜した数など参考にした数値が資料によっては違うので
そこは御了承下さい。

(超空の要塞B29)
ボーイング社のB29は、ターボチャージャー付きのエンジン4基を備え、爆弾を最大で9トンも積める高性能の大型爆撃機です。スーパーフォートレス・超空の要塞と呼ばれていました。
B29の最高速度は時速500キロ以上と戦闘機より速く、飛行高度は1万1千メートルと高射砲が届かない上空を飛ぶことができました。B29一機に9人から11人の乗組員が搭乗していました。


火炎放射器と呼ばれた性能が良くないエンジン)

BB29に装備されたR-3350エンジンは「火炎放射器」と呼ばれるほど、すぐオーバーヒートして火災を起こすというあやうさでした。また故障もよく出ていました。

そのため29は乗組員達にとってもやっかいな存在でした。

 

(日本本土初空襲での成果は余り出ず)

B29の日本初空襲は1944年(昭和19年)6月16日、爆撃目標は工業の要・八幡製鉄所でした。
当時はまだ米軍が南の島々を占領しておらず、B29は中国奥地にある成都からの出撃でした。
75機のB29が初の日本本土空襲を目指しますが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機が飛行を継続します。
結局、北九州上空には47機が飛来します。
ここで注目なのは75機出撃して、途中で故障や墜落があり目標の北九州上空には3分の2しか飛来できなかったということです。

 

ようやく到着したB29も米軍発表では作戦中の事故で5機のB29が損失、2機が
日本軍機により撃墜と報告します。
一方、日本側では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機と報じられました。
さらに米軍が目標とした八幡製鉄所の被害はほとんどありませんでした。

下は、1944年(昭和19年)6月16日のB29初空襲を報じる新聞記事です。

(8月20日の空襲 体当たりでB29撃墜)

8月20日にも八幡空襲が起きます。この時、1機の屠龍がB29に体当たりし2機のB29を撃墜しています。

この日飛来した61機のB29は日本発表で24機撃墜、米軍の記録では14機が喪失となっています。
また、攻撃目標だった八幡製鉄所は、被害が出ますが、48時間後には正常運行になり、思ったような損害を与えることはできなかったのです。

(南の島々からの飛来)

1944年(昭和19年)年8月、米軍はサイパンテニアン、グアムなどマリアナ諸島を次々と制圧し、島々に日本本土空襲用の飛行場を建設します。
B29の航続距離を考えると、B29がマリアナ諸島から発進した場合には、
北海道を除く日本本土すべてが爆撃可能地域となります。
そして米軍は、日本本土への長距離爆撃を開始します。
下の写真はテニアンの飛行場から続々と出撃をするB29の様子です。

この頃になると、B29の攻撃目標が日本本土の製鉄所などの鉄鋼産業から、航空産業基地へとシフトします。この方針転換があとから効いてきます。

 

B-29テニアンから2300kmの距離を5時間以上も掛けて高度1万メートルを飛んで来ます。しかし、実際に日本に来て爆撃をするときには、命中率をあげるために高度5000m付近まで下げて爆弾を投下する事がありました。
この高さですと日本の戦闘機も十分迎撃できますし、高射砲でも撃墜しています。
首都東京の防空の要は高射砲と震天制空隊でした。
首都防衛高射砲陣地の跡地は今も残っています↘

首都東京を爆撃するB29を迎え撃ったのは調布の陸軍飛行場から飛び立った部隊です。
その様子は下をクリックして御覧下さい↘

東京大空襲で民間人を狙った無差別爆撃に)

3月10日以降、米軍は一般市民をも攻撃目標にした無差別爆撃に切り替えます。
その最初が東京大空襲でした。
この東京大空襲は「非戦闘員である民間人の殺戮」であり、ハーグ陸戦条約3条の違反行為です。

しかし、その後もB29は4月7日には、東京上空で体当たりで撃墜されています。

硫黄島陥落後、B29に本格的に護衛が。。)

しかし、硫黄島が陥落すると、B29の爆撃に本格的に護衛の戦闘機がつくようになります。
こうなると、日本の戦闘機によるB29の迎撃が困難になります。

しかし、それでもB29は各地で撃墜されています。

 

度重なるB29による日本の航空産業工場の空襲で、日本の戦闘機の生産能力が著しく低下します。また、B29に護衛機がつくことで迎撃能力も低下していきます。こうなるとB29が我が物顔で日本の上空にやってくるようになります。

 

(B29撃墜を目撃した人の話)
おっさんは、今までB29が高射砲で撃墜されたその瞬間を目撃した何人かに話を聞いたことがあります。
B29は編隊を組み日本上空に来ます。それを迎え撃つ日本軍の高射砲の弾がB29に届かないこともありましたが、中には命中しB29が空中分解、あるいはバランスを失いフラフラと回りながら墜落していったそうです。

B29の墜落現場は、憲兵や軍、警察によりすぐに規制線が張られ立ち入り禁止となりますが、福岡に住んでいた理系の高校生が、規制線が張られる前に墜落現場を見に行ったところ、むきだしになったB29の機材や部品を目にして、「これは!!」とその技術力に驚いたそうです。

 

なお下は高射砲で撃墜されたB29です。

(統計からわかること)

B29は、首都・東京をはじめ日本各地に合計16万9800トンの爆弾、焼夷弾を投下し、各地を焼け野原にし、広島と長崎には原子爆弾を投下しました。

アメリ戦略爆撃調査団の記録によれば、第二次大戦中のB29生産数は約2500機です。
このうち485機が事故を含め喪失したと数値が出ています。つまり米軍は生産したB29の約5分の1を失っていることになります。

またB29の搭乗員の戦死者は3041名で、この数字は日本の特攻隊の戦死者数3948人と1000人も差がありません。(日本側の特攻戦死者数は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名です。)

空の要塞B29、
確かに空襲で日本中を焼け野原にしましたが、

これに対し日本軍が全くの無力だったというわけでは
ないようです。