奇兵隊を結成した
幕末の風雲児・高杉晋作の生家が
山口県萩市にあります。
(晋作の生家は一部公開中)
高杉晋作の生家は萩城下の菊屋横丁沿いにあります。
これがまた 実に赴き深い城下町の風景です。
晋作の生家は、現在、南側半分が公開されており、晋作の写真や書などが展示されています。
生家は、座敷(6畳床間付)、次の間(6畳)、居間(6畳、4.5畳)、小室に(3畳)という間取りです。
また産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などがあります。
奥さんと息子さんの写真が飾られていました。
(高杉晋作簡単ストーリー)
高杉晋作は、幕末の1839年に萩藩大組士で禄高200石の高杉小忠太の長男として生まれました。
晋作は、長州藩の藩校である明倫館に通う一方で19歳の時に、長州藩士・久坂玄瑞の
勧めで吉田松陰が主催する松下村塾に通い始めます。ここで頭角を現し松下村塾では、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
1858年には藩命で江戸へ遊学します。
さらに1862年5月には、藩命で幕府使節随行員として清国の上海を視察します。ここでアヘン戦争に敗れ外国に支配され半植民地状態になった上海の街並みや市民の姿を見て衝撃を受けます。
1863年6月7日には身分を問わない我が国初の軍事組織「奇兵隊」を組織します。
1864年8月イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃し 一部が上陸し、砲台が占拠されます。(馬関戦争)
(外国との交渉で古事記を延々と披露)
このとき、晋作は24歳という若さで和議交渉を任されます。
その席で外国側が強く要求した「彦島の租借」に対し、上海の実情を見聞した経験から租借をすると欧米列強の植民地化につながると考えた晋作は、なんと、交渉の席で、
いきなり古事記の文章を延々と話し始め、それを伊藤博文に通訳させました。
列強はこの高杉の奇妙な行動と毅然とした態度に押され、ついに要求を引っ込め彦島は日本の領土として守られることになりました。
(倒幕の中心:奇兵隊)
馬関戦争で外国軍に敗北した長州藩は、奇兵隊を中心に倒幕運動を行い、高杉晋作は
その中心的存在となっていきます。
幕府との戦いを勝利へと導く晋作の姿は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評されました。
しかし、当時は不治の病であった肺結核に冒され倒れ、1867年4月14日、明治維新を
見ることなく、わずか27歳8か月の若さで、その生涯に幕を閉じました。
<<高杉晋作の生家に行くには>>
JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りで20分、萩城外堀入口下車、徒歩5分
0838-22-3078
料金 大人100円
時間 9:00~17:00
休業 不定休
(高杉晋作立志像)
なお、晋作生家の道路をはさんだ向かい側には、高杉晋作立志像があります。
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維新の志士・高杉晋作はここで生まれ、
幕末を駆け抜けました。