吉田松陰で有名な松下村塾。
実は創始者は吉田松陰ではありません。
松陰の叔父・玉木文之進です。
(松陰神社のすぐ近く)
松下村塾の建物が残されている松陰神社のすぐ近くに、玉木文之進旧宅があります。
小さな家ですが、その前には「松下村塾発祥之所」と刻まれた石碑が立っています。
その横にある案内板を見ると・・・
この建物は木造茅葺の平屋建て41.76㎡。無料で、中に案内員の方がいました。
8畳の座敷と4畳の畳部屋。そして3畳半の玄関に4畳半の板間と土屋の台所があります。
この住居は、築200年以上で、当時は下級武士の家だったため、畳ではなく板張りでした。その後、板張りには畳が敷かれました。
鴨居には、やりを置いていたあとが・・。
風呂もトイレも外にありました。
松陰もこの景色を見た事でしょう。
「松下村塾」と言えば、吉田松陰を思い浮かぶと思いますが、実はこの塾は松陰の父親の弟=松陰の叔父の玉木文之進が立ち上げた私塾です。
松下村塾に関係する吉田松陰と玉木文之進・・父親が兄弟同士なのに苗字が違いますね、
これには武家のお家を守る事情がからんでいます。
吉田家の分家の杉家があり、ここは、松陰の叔父の大介が吉田家を継いでいました。
そして、松陰は幼少のころに叔父・大介の養子になっていました。
ところが、養父の大介は松陰が5歳のとき病死してしまったために、松陰は吉田家の
当主となり、杉家で育てられました。ここで苗字が杉から吉田になります。
一方、松陰の叔父=父の弟の文之進ですが、当初は苗字が杉でしたが、養子に入り玉木姓に変わります。
当時の長州藩では、歴代の家老を出す一番高い家臣のレベルの「寄組」、その次に、藩のさまざまな政治を実質的に担い、財政などを担当するクラスの「大組」、その下には「無給通」という格がありました。
杉家は「無給通」に属していましたが、文之進は、杉家から出て「大組」の「玉木家」に入ります。そして文之進は、長州藩の藩政に関与する役職に就きます。
長州藩では、長州藩独特の言い方で、江戸家老を「当役」、国家老を「当職」と言いますが、玉木文之進は、「当役」まで務めるなど大成功します。
しかし1840年、部下の不始末に対し責任を取るという形で免職になり、長州藩の萩に帰ります。そして2年後の1842年に自宅で私塾を開きます。これが、のちの松下村塾です。吉田松陰が12歳のときです。
(松下村塾は、一度閉鎖するも松陰が再開)
数年後、玉木文之進は長州藩の役職に就いたため松下村塾を閉じました。しかし吉田松陰が25歳のときに藩の命令で自宅での禁固命令を受け、そのときに松下村塾を再開させました。
松下村塾に関しては下をクリックして御覧下さい👇
(明治維新後、再び再開)
吉田松陰が安政の大獄で命を落としますが、松下村塾は、明治維新後の1869年(明治2年)、創始者の玉木文之進によって再開されます。
ちなみに、日露戦争旅順港攻略の英雄・乃木希典も玉木文之進に学んでいた時期があります。つまり、玉木文之進は、吉田松陰と乃木希典という、幕末と明治の重要な人物を二人を育てたわけです。
(萩の乱の責任を感じ墓前で自害)
江戸幕府が滅び、明治時代に入ると廃刀令や武士の秩禄処分(給料の打ち切り)などが行われ、武士たちが失職します。日本全国には明治政府に不満を持つ不平士族が存在していました。
この頃は、文之進が松下村塾を主宰していた時期でした。
松陰が教えていたころの松下村塾の門下生であった前原一誠が、新政府で徴兵制を支持する山県有朋と対立し、参議を辞職して萩に戻ってきます。
そして前原一誠に萩の不平士族が集まります。やがて前原一誠は、熊本での神風連の乱の勃発に呼応して挙兵し、1876年(明治9)年に萩の乱を起こします。
萩の乱に参加した200名の中には、前原を始め松下村塾門下生が多数含まれていました。
乱は鎮圧されましたが、玉木文之進は、松下村塾の門下生が萩の乱を首謀し、また多くの塾生が参加したことに責任を感じます。
そして1876年(明治9年)11月6日「反乱の徒を輩出したのは、わが教育の罪である」とし、自宅から坂を登ったところにある墓所に向かい先祖の墓前で詫び、ここで切腹します。享年67。
その時、介錯をしたのは当時40歳の松陰の妹の千代(お芳)でした。
<<玉木文之進旧宅への行き方>>
「東光寺前」バス停徒歩5分
「松陰神社前」バス停徒歩10分
美祢東JCTから国道490・262号、県道32号経由30分
松陰神社から松陰神社正面脇の道を15分ほど歩くと到着します。
この建物は1989年(平成元年)まで
実際に使用されていたそうです。