山口県下関市の市街から離れた吉田と言う地区に東行庵(とうぎょうあん)があります。ここは幕末に活躍した高杉晋作を偲んで建てられた庵です。
小高い山や池がある非常に大きな敷地です。
東行(とうぎょう)とは、かの有名な歌人・西行(さいぎょう)にあやかり、
高杉晋作が作った「号」です。
「西」に対抗して反対側の「東」としています。しゃれてますね。
東行庵の入り口から入り正面を歩くと高杉晋作像があります。
長州藩士・高杉晋作は討幕に奔走したものの明治維新を見ることなく結核で
死亡します。
この地はもともとは同じ長州藩の山形有朋の敷地でしたが1869年(明治2年)に
晋作の愛人おうのにあげます。
おうのは、晋作の死後、出家し尼となり谷梅処(たにばいしょ)と改名し、
この地で晋作の墓を守り、1909年 (明治42年)に亡くなるまで晋作を弔いました。
おうのの死後は2代「梅仙」、3代「玉仙」、現在、松野實應兼務住職と受け継がれて
います。
(晋作・おうの・奇兵隊士の墓)
東行庵の入り口の右の坂を登ると高杉晋作をはじめとする明治維新の戦士達や奇兵隊に関わった人たちが眠るお墓があります。
(高杉晋作の墓)
下の写真が高杉晋作の墓です。
おっさんも晋作の墓に手を合わせました。
高杉晋作の墓は京都にもあります。
(おうのの墓)
晋作の妾の、おうのの墓は晋作の墓の少し下の部分にあります。
(奇兵隊の墓)
東行庵には、晋作が創設した奇兵隊の志士のお墓もありました。
白石正一郎に関してはここをご覧ください。
(晋作の本妻・雅子)
さて、おっさんは東行庵に来てずっと気になっていました。
晋作は妾のおうのと行動を共にしていて、彼女は死後も墓を守っていたのですが、
じゃあ本妻はいたのか?どうなったのか?
そこで調べました。
高杉晋作には「雅子」という正式な妻がいました。長州藩士・井上平右衛門の次女で
萩城下1番の美人と言われていました。
1860年11月、双方の父親同士のすすめで2人は結婚します。高杉晋作、22歳、雅子16歳でした。その後、一人息子に恵まれます。
しかし、晋作は活動で各地に足を運び、やがて下関で芸妓のおうと出会います。
この時、おうのは20歳。雅子の2つ年上でした。
その後、高杉晋作は、おうのを身請けし、2人は一緒に暮らすようになりました。
一方、本妻の雅子さんは息子と長州萩で暮らしていました。
そして1867年4月14日に晋作は死去します。
晋作と雅子との結婚生活は7年余りですが、晋作が各地を動き回っていたため、
実際に共に過ごしたのは1年半ほどだそうです。
晋作の死後、明治に入ると雅子さんは東京で暮らします。この東京の雅子さんの家に
おうのが遊びに来たことがあるそうです。
【東行庵にある高杉晋作像】
(晋作もち)
道を挟んで向かい駐車場(無料) にはお店が2軒あり、名物のお餅を売っています。
その名も「晋作もち」!
シソの葉で包んだものと普通のお餅の2種類。1個110円とお手頃でした。
中に餡子が入っておいしかったですよ。
(高杉晋作が眠る東行庵)
また、東行庵一帯は、春には梅や桜、初夏の菖蒲、秋の紅葉・・と色とりどりの四季を
楽しめます。
【東行庵公式HP】
<<東行庵への行き方>>
下関の市街地からはちょっと遠い。
(1)JR小月駅からバスで14分、「東行庵入口」バス停から徒歩で5分
(2)車では小月ICから車で10分
TEL:083-284-0211
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。
地図上のルートを押すと道案内をしてくれます】