日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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諏訪野町公園にある第十八師団記念碑と、その向かい側にある日清・日露・日独 戦役記念碑(福岡県久留米市)

福岡県久留米市
国道三号線沿いにある西国分小学校の裏には
諏訪野町公園があります。
ここには、第18師団記念碑、
さらに道路を挟んだ向かい側には、
日清・日露・日獨戦役記念碑が建っています。

(軍都久留米にあった第十八師団)
陸軍の師団司令部があり、軍都として栄えた福岡県久留米市
久留米市の諏訪野町公園の一角には、この地で編成された、陸軍第十八師団の慰霊碑があります。

正面には、「第十八師団記念碑」の文字と「陸軍中将・金谷範三書」と刻まれています。

金谷範三は、1922年(大正11年)8月15日 から 1925年(大正14年)5月1日まで、第十八師団長でした。金谷師団長は、1925年(大正 14年)に、軍縮により第十八師団の廃止が決定すると、軍と久留米市の協力も得て、この記念碑を建設しました。
金谷は、最終的には、陸軍大将になり、陸軍参謀総長を務めます。

(第十八師団再結成)
軍縮でいったん廃止された第十八師団ですが、支那事変が始まると再度編成されます。第十八師団は、最強を誇った師団であり、当時200近くあった陸軍の師団の中で唯一、皇室の紋章、菊の名が与えられ、菊兵団とも言われました。
第十八師団の強さは、他の兵団からも一目置かれていたそうです。
第十八師団は、中国大陸の激戦地を転戦したあと、1943年(昭和18年)にはビルマ北部のジャングルに派遣されます。ここで、過酷な戦い余儀なくされ将兵の8割が命を落としたそうです。 

(日清、日露、日獨 戦役記念碑)
諏訪野町公園と道路をはさんだ反対側にある久大線の線路の脇には、ある石碑があります。

近くに寄ってみると・・・

その正面には、「日清、日露、日獨 戦役記念碑」と書かれています。

日独戦争は、日本とドイツが戦った第一次大戦の当時の名称です。
つまり、この石碑は、日清戦争日露戦争、日獨戦争の記念碑です。
日独戦争では、ここ久留米の部隊が活躍しました。


碑の左側には、陸軍 柴勝三郎 書とあります。

柴勝三郎は、1915年(大正4年)6月4日 から1919年(大正8年)の7月25日までの4年間、第18師団長を務めた方です。

戦役記念碑の横には、戦没者の名前、さらに1925年(大正4年)11月10日、国分村尚武会建立 と刻まれています。

 

 <<第十八師団記念碑および日清 日露 日独 戦役記念碑の行き方>>

JR南久留米駅から徒歩10分程度

住所:福岡県久留米市諏訪野町


かつて軍都として発展した福岡県久留米市
当時を物語る2つの塔が静かに街を見つめています