日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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沖縄戦の最初の日米激戦地・宜野湾市の嘉数高台公園から徒歩10分ほどの住宅地にある「独歩二十三大隊慰霊碑」と「下田部隊慰霊碑」

沖縄戦で日米両軍の激戦が繰り広げられた嘉数の戦い。
その戦いが繰り広げられた
沖縄県宜野湾市の嘉数高台公園から
徒歩10分ほどの住宅街に
「62師団独歩23大隊慰霊碑」と
「球14212 下田部隊慰霊碑」の2つの慰霊碑が
隣り合うように建立しています。

沖縄戦最初の日米が激突した嘉数の戦い)
1945年(昭和20)年4月1日、米軍は沖縄本島の中部西海岸から上陸し南下しました。

やがて米愚は宜野湾市の嘉数一帯で待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めます。沖縄戦最大の激戦、嘉数の戦いです。
米軍は、2日間ほどで高台を占領できると考えましたが、日本軍守備隊の抵抗で戦闘は16日間に及びました。
嘉数の戦いに関しては、下をクリックして御覧下さい👇

この日米の死闘が繰り広げられた嘉数高台公園から徒歩10分ほどの住宅街の中に2つの慰霊碑が存在します。
道路に面した慰霊碑の入り口には、案内板があります。

案内板から2つの慰霊碑が「62師団独歩23大隊」と「球14212 下田部隊」のものだと、わかります。どちらの部隊も嘉数の戦いで、米軍を迎え撃っています。

この2つの部隊について、ここで少し整理をします。
内閣府HPに記載されている「第32軍部隊一覧」には、
「第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊:石4284 大隊長 山本重一少佐」の文字、
また「独立混成第44師団区分のその他部隊で、独立歩兵第272大隊(独混第45旅団):球14212 大隊長 下田直美大尉」の名前があることがわかります。
下をクリックして確認してください👇

(階段を下りて行くと・・)

さて、案内板の横にある小路に入り階段を降りていくと2つの慰霊碑が隣り合って建立していました。
写真右が、独立歩兵第272歩兵大隊の戦没者を祀る「下田部隊慰霊碑」、写真左が第62師団歩兵第64旅団独立歩兵第23大隊の戦没者を祀る「捧英魂(ほうえいこん)碑」です。

(球14212 下田部隊慰霊碑)
下田部隊は、1945年(昭和20年)4月13日の早朝の戦いでほとんどが戦死したそうです。、

「球14212 下田部隊慰霊碑」は1990年(平成2年)7月に下田部隊生存者有志一同が建立しました。610柱を祀っているそうです。
この「球」というのは部隊についてを秘匿するための暗号=「通称号」です。沖縄戦では、「球」以外に「石」、「山」などの通称号が使用されたそうです。
下田部隊の下田は大隊長であった下田直美大尉から取っています。

(62師団独立歩兵第23大隊慰霊碑)
独歩第23大隊は、沖縄本島に主要配備された第62師団隷下の「独立歩兵第23大隊」です。大隊長は山本重一少佐で通称号は、石4284です。
嘉数高地の戦いに参戦し多数が戦死しました。第23大隊は、その後、第22大隊に再編されます。そして、山本大隊長以下将兵浦添の沢岻で玉砕します。

碑は、1966年(昭和41年)3月に石部隊生存者が建立しています。1700柱を祀ります。

「独歩二十三大隊」の慰霊碑の表側には文字が刻まれています

≪捧英魂碑≫

≪噫 盡忠幾萬ノ戰士ノ 尊キ血潮デ染ミシ此ノ山河ヲ望メバ 悲憤ノ雄叫ビ今尚響キ 阿修羅ノ如キ其ノ勇姿ココニ髣髴タリ 

七生報國ノ斗魂今ヤ祖國ノ興隆ニ見ル

萬世ニ其ノ偉勲ヲ称エ謹ンデ茲ニ殉國ノ英霊ヲ弔フ

石部隊生存者≫

<「独歩二十三大隊慰霊碑」と「下田部隊慰霊碑」への

行き方>
嘉数高台公園より車で3分、徒歩6分。
わかりにくい場所なので慰霊碑入口のすぐ隣にある介護老人保健施設「ぎのわんおもと園」を目印にすると見つけやすいと思います。

 

米軍との死闘を繰り広げた独歩二十三大隊と下田部隊、
その慰霊碑が激戦が繰り広げられた地に
ひっそりと建っています。
命を落とされた方の御冥福をお祈りします。