1945年(昭和20年)4月8日(7日説もあり)
日米両軍が激しい地上戦を行った
嘉数の戦いが始まりました。
日本軍6万4,000人、米軍2万4,000人の戦死傷者を出した沖縄戦最大の激戦地の1つです。(数字には諸説あり)
(嘉数の戦い)
沖縄本島中部の宜野湾市にある嘉数高台公園は、かつては第70高地と呼ばれ、日米双方が1945年(昭和20年)4月8日(7日説もあり)から16日間に及ぶ地上戦を繰り広げ、
日本軍6万4,000人、米軍2万4,000人の戦死傷者を出した沖縄戦最大の激戦地の1つです。(ただし数字には諸説あり)
日本具は、米軍の戦車に対し、地雷を抱えたまま突入する攻撃も行われ多数の戦車を破壊しました。米軍は30台の戦車を投入したものの退却できた戦車はわずか8両でした。
(公園内に残る激戦の跡)
現在、宜野湾市にある嘉数高台公園は見事に整備されていますが、園内には今なお激戦の爪痕が残っています。
(弾痕の壁)
階段正面には弾痕の残る壁があります。実際に銃が撃ち込まれた壁を移築しています。
下の写真が、実際の壁です。
戦前の嘉数は家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑が広がる集落でした。しかし、米軍上陸後日米両軍がここで激しい戦闘を行い、住民も巻き込まれ、家屋が被弾しました。
(陣地壕)
展望台へ続く階段の途中には陣地壕が点在しています。
陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡もあります。
日本軍は、1944(昭和19)年の夏ころから、嘉数高地やその周辺にいくつもの陣地を築きました。建設作業には兵士だけでなく、周辺に住む老人や女性を含む多くの人々がかりだされ、朝から夕方まで毎日作業が続けられました。
写真は陣地壕の出入口で内部には約200mの壕があるようです。
(米軍を迎え撃ったトーチカ)
上陸した米軍を迎え撃った防御用陣地のトーチカが今も残っていました。
トーチカは鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあります。
下の写真の四角い穴から、トーチカの内部に入ることもできます。中は狭く、薄暗く、大人が3名ほど入れる広さです。
入り口の壁には、銃で撃たれた跡が残っているのがわかります。
トーチカには射撃するための銃眼が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して米軍を攻撃しました。
その銃眼付近のコンクリートは、原形をとどめないくらいに破壊されていて、戦いの激しさを物語っています。
現地ガイドの説明によると、先程の陣地壕とトーチカはつながっているようです。
(宜野湾が一望できる)
嘉数高台公園の展望台からは、宜野湾が一望できました。ここから米軍が上陸してきました。
嘉数の戦いに参加した部隊に関しては
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<<嘉数高台公園への行き方>>
那覇空港から高速道路を利用して約25分
沖縄県宜野湾市嘉数1-6-15