日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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沖縄戦の最中、足場が悪い山道を砲弾をくぐって命がけで重い食料を運んだ 飯上げの道

沖縄県南風原町にある陸軍病院壕と
近くの集落を結ぶ「飯上げの道」と呼ばれる道が
あります。
(沖縄陸軍病院
1944年(昭和19年)の10・10空襲後、沖縄陸軍病院は、那覇から南風原国民学校(現南風原小学校)に移ります。さらに翌年の1945年(昭和20年)陸軍病院は、3月下旬からは町喜屋武と兼城に掘られた約30の壕に移転しました。そして、現在公開されている20号壕からおよそ450メートル離れた喜屋武の茂みの中に病院用の炊事場がありました。

陸軍病院壕での看護に動員された女学生たちは、炊事場で作られた食事を樽にいれ、二人一組で黄金森にある陸軍病院壕まで運んでいました。
食事が入った樽の重さは15キロほどあり、これをたった2人で運ぶだけでも大変な作業ですが、炊事場から陸軍病院壕までには「黄金森」という足場の悪い山道を通る必要がありました。また米軍の弾雨が飛び交うために、命懸けで食料を運ぶという過酷なものでした。
(’今も残る飯上げの道)
飯炊き場から陸軍病院壕までの黄金森の中に「飯上げの道」という場所があります。「飯上げ」という言葉は軍事用語で「配られる食料を運搬する」という意味で、戦時中の食料運搬に使用された道ということです。

現在は「飯上げの道」は整備されていますが、一部は当時のまま残っていてと当時の状況を知ることができます。普通に歩くのでも足を取られそうで大変なのですが、ここで15キロの食料が入った樽を運び、しかも敵の砲撃の中を。。。というと非常に大変な作業であることが想像できます。

(次第に減っていく食料)
病院の食事は、初めの頃は朝夕の2回で、テニスボール程のおにぎりにしたもの1個が1回の食事でした。しかし、戦況が激しくなり食料が不足すると、おにぎりの大きさがピンポン玉くらいになり、1日の食事の回数も1回になりました。

 

【南風春町観光サイトHP 飯上げの道】

<<飯上げの道への行き方>>
南風原町の黄金森にあります。南風原文化センターの脇にあり、沖縄陸軍病院南風原壕群20号の入口付近からも入ることができます。
住所:沖縄県南風原町喜屋武


砲弾をくぐりぬけ、
足場が悪い道で命をかけて重い食料を運んだ、
そんな方々がいたことを忘れないでください。