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終戦直後の1945年(昭和20年)
「真の天皇は自分である」と名乗り出た人がいます。
熊沢天皇です。
(我こそは熊沢天皇)
太平洋戦争で負け、日本が史上初めて外国に占領されると世の中は混乱します。
・・と同時に民主主義の世の中になり、自由に物が言えるようになりました。
さらに天皇など皇室に対する不敬罪が廃止されたことなどから、「我こそが南朝の末裔で正統な皇位継承者である」と自称する人間が現れました。
名古屋で雑貨商を営んでいた熊沢寛道、通称・熊沢天皇です。
どう見ても、その辺にいるおっさんにしか見えませんが、熊沢寛道氏は「俺は天皇の子孫であり、しかも正当な南朝の流れを組むのだ、だから本当は私が本当の天皇なんだ!!」と主張し、熊沢天皇と称します。
(マッカーサーへの手紙)
終戦の年、名古屋にいた熊沢天皇から当時のGHQのトップ、ダグラスマッカーサーに、1通の手紙が届きます。
熊沢天皇は「自分は後醍醐天皇から数えて22代目である。昭和天皇は北朝系の偽天皇であり、南朝正統の自分に皇位を返還すべきである」という請願書を送りつけたのです。
つまり、熊沢天皇は、当時の日本の最高権力者に、自分こそが正当な天皇の流れをくむ者であり、北朝である現皇室に代わり、熊沢家による南朝の再興を請願しているのです。
この手紙に対し、当然ながら、マッカーサーおよびGHQは一笑します。
(雑誌「LIFE」に写真付きで登場!:その記事が無料で読める)
しかし、「これは面白いネタだ!」とアメリカの雑誌「LIFE」の記者が注目します。
記者たちは名古屋にある熊沢寛道の自宅を訪問し、写真撮影とインタビューを行います。そしてその様子は、「LIFE」1946年1月21日号に掲載されました。
その記事は今も無料で閲覧できます。下をクリックして御覧下さい
こうして、熊沢天皇は、AP通信、ロイターなどを通じて世界中に報道され、さらに日本でも新聞が取り上げます。
こうして熊沢天皇はブームとなり全国に熊沢天皇後援会のようなものがつくられます。
そして自らの正統性を主張するため全国行脚に出かけます。
(天皇の流れを組む人はたくさんいます)
さて、南朝の流れを組む正統なる後継者と主張する熊沢天皇ですが、どうなんでしょう?
長い日本の歴史の中で、壬申の乱、源平合戦、南北朝争いなど皇位争いで天皇の流れが変わったことは何度も起きています。また天皇が同時期に2人存在したこと何度もあります。
さらに子孫を残すという重要な使命があることから天皇には、正室、側室など奥さんが複数いて、天皇の血を受け継ぐ人もたくさんいました。
そう考えると、熊沢天皇はさかのぼれば、それに該当するかもしれません。
しかし、天皇の血を受け継いでいるだけで、天皇ではありません。
また、江戸時代、明治・大正時代には家系図を作る職業があり、言い方は乱暴ですが、金さえ払えば、天皇につながる家系図を作ることも可能です。
おっさんの友人に、「自分は平氏の末裔だ」という人がいて、その人の家系図を見たら、平清盛まで行きました。さらに言うと平清盛は桓武天皇につながるので、この人も天皇の流れを組むということになります。
熊沢天皇はいったい何だったのでしょうか??
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終戦で、外国に占領され民主主義になり、これまでの価値観が大きく変わったときに
登場した熊沢天皇ですが、やがて世間から忘れ去られ、1966年(昭和41年)6月11日、
ひっそりと死亡します。
なお、この時期には熊沢天皇以外にも「自分が本当の天皇だ」と主張した人が続々と現れます。