日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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ガイド付きで見学が可能、沖縄陸軍病院 南風原壕群20号

沖縄戦野戦病院で何があったか、
当時のまま残る沖縄陸軍病院南風原壕群20号は
専属のガイドが壕内を案内してくれます。
沖縄戦を学習する方は是非、ここを訪れて下さい。

★沖縄陸軍病院 南風原壕群20号は、壕の外観も含め撮影は一切禁止です(2023年11月現在)それを遵守します。

南風原町黄金森に沖縄陸軍病院壕群を構築)
南風原町には黄金森(こがねもり)とよばれる小高い森があります。この森に日本軍が沖縄戦に備え、沖縄陸軍病院壕群を構築しました。

もともと、沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成 されました。
6月からは移動して、那覇市内で活動を始めましたが、同年10月10日におきた米軍空襲によって施設が焼却したため、南風原国民学校校舎に移転しました。
ガイドによると南風原が選ばれたのは、
①海岸から遠い=敵の艦砲射撃を受けない 
②列車があった=当時さとうきびを運ぶ軽便鉄道が走っていてそれが輸送に転換できた
③32軍司令部が近くにあった・・・・
この3つの理由だからだそうです。
それ以来、第 32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が作られました。
(病院が壕に移る) 
米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬、陸軍病院は各壕へと移りました。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加 え、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員されました。

 4月1日に米軍が上陸した後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めました。
院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここで傷病兵の治療に当たりました。

沖縄戦が始まると、この病院に数千名の傷病兵が運び込まれましたが、医療設備や薬がとぼしいなか、満足な治療はできませんでした。麻酔のないままの手術や手足の切断なども日常的におこなわれました。
負傷兵でいっぱいになった壕内には血と膿の臭いが充満しました。
この臭いを再現した物を南風原病院壕で嗅ぐことができます。

5月下旬、第32軍司令部 は摩文仁糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出されました。その際、連れて行くことができない重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われました。

(沖縄陸軍病院 南風原壕群20号は見学可能)
沖縄陸軍病院 南風原壕群20号は、ガイドの話を聞きながら見学できます。
一度に入る人数は10名以内で、全員が必ずヘルメットを着用し、無料で貸し出される懐中電灯がないと暗すぎて何も見えません。見学時間は1グループ20分程度です。
見学料は、県内の大人が200円、県外の大人は300円でした。
★ただ、写真撮影は一切禁止でした。

(実際に中に入ると)
では実際に沖縄陸軍病院 南風原壕群20号の中に入りました。
まず入り口付近で、ここで使用していたツルハシと薬剤の実物が展示されていました。
この壕は手掘りの壕で中はとても狭いです。ツルハシで掘った後を見ることができます。
高さもそんなに高くなく、身長175センチのおっさんは何度も頭をぶつけそうになりました。
また、壕は曲がっています。これは光が漏れて壕の存在を敵に知らせないためです。
さらに壕の中は少々下り坂となっています。これは雨が降った時に水が流れていくようにしているためです。
壕内は、かなり暗いですが、ここの灯りは、ロウソクや缶に油を入れそれを燃やしたものを使っていたそうです。

ガイドの話によると、ここで夜10時から負傷兵たちの手術が行われていたそうです。
しかし麻酔がないのでエーテルを吸わせ気を失ったところで手術を行います。途中で患者が目が覚め、苦痛で動くので、それを押さえていたそうです。

<<沖縄陸軍病院 南風原壕群20号への行き方>>

沖縄陸軍病院 南風原壕群20号の見学は事前予約制です。下をクリックして詳細をご覧ください👇

公開日:9:00~17:00

受付時間16:30まで

定休日:水 年末年始
住所:沖縄県島尻郡南風原町

この地で亡くなられた方の
ご冥福をお祈りします。