日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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ひめゆりの搭に行き現地で何が起きたかを感じて下さい

 

沖縄戦で有名なものの1つに、ひめゆり部隊があります。
沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の近くに
ひめゆりの搭があります。

ひめゆり部隊とは)
日本軍は終戦の前年、1944年(昭和19年)12月に沖縄県で15~19歳の女学生を中心に看護訓練を行います。そこで訓練を受けた彼女たちは翌年の1945年(昭和20年)3月から始まった沖縄戦で看護活動にあたります。

そのうち沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師や生徒でできた集団を「ひめゆり部隊」といいます。

名前の「ひめゆり」とは、沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」の双方からとってできた「姫百合」という名称がもとです。

ひめゆり部隊は、「ひめゆり隊」あるいは「ひめゆり学徒隊」とも言います。

沖縄戦で看護補助業務に従事)
米軍の沖縄上陸に対し日本軍は沖縄に陸軍中将、牛島満の下に第32軍約8万6千人を配備していました。

米軍の沖縄上陸目前の1945年(昭和20年)3月23日に、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなるひめゆり部隊が、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護補助要員として動員されます。

この沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄でした。病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や、ガマと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ施設で、ここに軍医や看護婦、衛生兵など約350人がいました。

米軍が沖縄に上陸し日米での地上戦が始まると、15~19歳の女学生・ひめゆり部隊が看護補助要員として動員されます。
ひめゆり部隊の面々は陸軍病院で正規看護婦の補助要員として負傷兵の治療や遺体埋葬などに従事したそうです。

戦況の悪化に伴い、5月22日に第32軍司令部が首里から南部の摩文仁に撤退すると、
同時に陸軍病院も5月25日に撤退をはじめ、糸満市井原にある壕に、第一外科、第二外科、第三外科を作りました。
ひめゆりの慰霊碑、これはなくなった方の納骨堂でもありますが、その慰霊碑がある
その手前の洞窟、よく見ると写真の左には「沖縄陸軍病院第三外科壕」の石碑があるのがわかります。壕の深さは14mで、当時はハシゴで昇り降りしていたということです。

(解散命令下る)
6月18日に軍司令部から「直ちに学徒隊を解散する。これからは各自の責任で行動してほしい」と言われ解散命令が出されます。
翌19日の朝、第三外科壕は米軍から黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕内にいた96名の
うち87名が死亡し、さらに壕を脱出した3名も銃撃で死亡します。

(医療従事者や負傷兵への攻撃は国際法違反)
 米軍が行った負傷者や病人、医療従事者への攻撃は戦時国際法で禁止されていましたが米軍は野戦病院を攻撃しています。そしてその行為は不問にされています。

第一外科・第二外科の学徒隊も解散命令によって壕を出て、「鉄の豪雨」と表現される戦場をさまよい、多くの人が命を落としました。

最終的には、ひめゆり部隊の教師・学徒240人のうち136人が命を絶ちました。

1945年(昭和20年)3月26日から6月23日まで沖縄で続いた沖縄戦は凄惨を極めました。1976年(昭和51年)3月に沖縄県援護課の発表によると、日本側の死者数は18万8136人。うち沖縄県出身者は12万2228人、一般人は9万4千人でした。

ひめゆり部隊は、女子生徒222人と引率教師18名の合計240名にうち136人が死亡しました。

また、ひめゆり部隊以外にも、様々な隊があり、その多くの方が犠牲となられました。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔」という言葉はよく聞きますよね。慰霊碑の右手前にある高さわずか数十センチの石、これが「ひめゆりの塔」です。

「塔」と言ってもそんなに高くありません。ひめゆりの塔は、ひめゆり部隊の忠霊塔で終戦の翌年1946年(昭和21年)4月7日に除幕式が行われました。

沖縄戦殉職医療人之碑)
ひめゆりの塔のすぐ隣には、沖縄戦殉職医療人之碑があります。

ここには、沖縄戦で、地元沖縄での医療に従事し戦没された医師・歯科医師・薬剤師・看護婦等約50余名が合祀されています。

ひめゆり平和祈念資料館)
ひめゆりの搭のすぐ近くに、ひめゆり平和祈念資料館があります。
入館料は大人450円です。ただし館内は撮影禁止です。
ここには、ひめゆり部隊で生き残った方の証言映像もあります。

(心に残った証言)ひめゆり平和記念資料館で、生き残ったひめゆり部隊の方々の証言映像を見ました。
どれもこれも非常に悲惨であり死と直面したギリギリの生活であり心に残りました。
その中でも強烈な印象をうけた証言を紹介します。
その方は、米軍に追い詰められ集団で逃げていました。すると片言の日本語で「出ておいで」と投降を促すアナウンスが流れます。そこで、恐る恐る仲間たちと姿を現すと、いきなり米兵が機銃掃射を行います。その方の前には先輩が複数いましたが即死。先生も下半身が吹っ飛び、あたりは血の海になります。その方は、撃たれた先輩方の下敷きになりそのまま失神したので、命を失う事がなかったそうです。
・・・なんと凄まじい事でしょうか。しばらくは我を忘れてしまいました。
投降を促し、出てきたら射殺。しかも降伏をしている民間人に対し銃撃・・・。言葉がありません・・

ひめゆりの搭・ひめゆり平和祈念資料館への行き方>

車で行きましょう。
那覇空港から車で40分くらいです。
住所沖縄県糸満市伊原671-1

ひめゆりの搭、及び、ひめゆり資料館には
是非足を運んで下さい。
そして、ここで何が起きたか、知って欲しいです。
亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。