日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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久留米市にあるドイツ兵俘虜慰霊碑 ~敗戦国ドイツを丁寧に扱い、育まれた産業と文化~

福岡県久留米市久留米競輪場近くに、
ドイツ兵俘虜慰霊碑があります。
久留米には日本最大規模のドイツ兵俘虜収容所があり、
ここで亡くなった方々の慰霊碑です。
なお「俘虜」とは、捕虜のことです。

(久留米に日本最大のドイツ兵捕虜収容所があった)
第一次世界大戦は1914年(大正3年)に始まります、当時は日独戦争と言っていました。日本は連合国の一員として参戦します。
そして11月7日午後7時50分、久留米第十八師団が、中国大陸にあったドイツの青島要塞を陥落させます。下の写真は青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲です。

青島陥落に関しては下をクリックして御覧下さい。

(独逸兵の多くは久留米へ)
日本にやぶれ捕虜となったドイツ兵の多くは、青島を攻略した久留米第十八師団の関係で久留米へ到着します。
そして久留米には、国内最大のドイツ兵俘虜(ふりょ)収容所ができ、ピーク時には1319人を収容していました。

捕虜はハーグ条約に基づき人道的に待遇され、衣食住がされていいて遠足にも出かけていました。
収容所内にはサッカーやテニスなどの13のクラブ活動があり、頻繁に競技会が開かれていたようです。また収容所内に二つの楽団があり、コンサートが二百回以上ひらかれています

この捕虜の扱いは、第二次大戦でのシベリア抑留とは大違いです!!

1919年(大正 8年)6 月 28 日に、ベルサイユ講和条約が調印されて戦争が終了します。それにともないドイツ兵捕虜が次々と本国へと帰ったため翌年の3月12日、5年3ヶ月間続いた久留米捕虜収容所は閉鎖となりました。
(ドイツ兵俘虜慰霊碑)
5年3ヶ月の久留米の捕虜収容所中に、戦争での怪我が元で2名・病気で9名の計11名がなくなり、ドイツ本国のキリスト教による葬儀の後に陸軍墓地にほうむられました。
現在、久留米競輪場の近くには、ドイツ兵俘虜慰霊碑があります。

駐車場を背中にして道路の右側に小路があります。ここに入ります。

すると。・・

真ん中に建つのは慰霊碑です。

 

碑の正面には、剣と収容期間をしめす西暦(1914-1919)が刻まれています。

側面には命を落としたドイツ兵捕虜11人の名前が刻まれています。

 

背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれています。

(久留米のゴム産業に貢献)
久留米は、ブリジストンを初めとしたゴム産業で有名ですが、それにはドイツ兵捕虜が大きく関係しています。

収容所にいたドイツの捕虜たちの中には、ゴム関係の技術者がいて、「つちやたび合名会社」(今の月星化成)や「日本足袋株式会社」(今のアサヒシューズブリジストン)で雇用されたのです。そして彼らの技術が、久留米のゴム産業の発展に大きく貢献します。

(第九を初めて日本人に披露)
久留米市民はドイツ兵捕虜を「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、様々な交流が行われていました。
その1つ、1919年(大正8年)12 月 3 日、久留米高等女学校で、史上初めて日本人を対象として「第九」が演奏されました。演奏時間は約3時間でした。このことが日本で師走に「第九」を演奏するきっかけになったかも知れません。

 

ドイツ俘虜慰霊碑にあった石碑。是非、拡大してお読み下さい。

<<ドイツ兵俘虜慰霊碑の行き方>>
JR南久留米駅から徒歩15分程度
住所:福岡県久留米市野中町32

 

敗戦国のドイツ兵捕虜を丁寧に扱った日本人、
そして交流で育まれた文化と産業・・。

ひっそりと建つドイツ兵俘虜碑は、
そんな日独関係を静かに語ってくれます。