神奈川県平塚市内にある平塚八幡宮の隣の公園には、
ピンク色の洋館があります。
この洋館はかつて
海軍の将校たちの交流の場として使用された、
横須賀水交社平塚集会所です。
現在は旧横浜ゴム平塚製造所記念館です。
(自前の火薬工場の建設を)
1904年(明治37年)2月から翌年の9月まで起きたの日露戦争では、日本海軍が使用した火薬は、すべて同盟関係にあった英国からの輸入でした。
そのため日露戦後、海軍は日本国内で火薬製造所を新設すべきだと主張します。そして火薬製造所建設の地として平塚が選ばれました。
平塚が選ばれた背景は、大規模な火薬製造所を建設する土地が確保できたことと1887年(明治20年)に東海道本線が開通したことによって火薬製造の原材料と製品の輸送が便利になったこと、さらに軍都・横須賀に近いことや、相模川や金目川に囲まれ良質な地下水が比較的容易に確保できたこと、などがありました。
(火薬工場の英国人技術者宿舎として)
1905年(明治38年)、日本海軍はイギリスのアームストロング社、チルウォーズ社、ノーベル社とともに合弁会社「日本火薬製造株式会社」を設立し、神奈川県の平塚市に工場を建設しました。
そして、英国人技術者の宿谷・執務室としてこの洋館が建設されました。
現在の洋館は、建設当時の姿です。おしゃれな感じがします。
この建物は、基礎が煉瓦造りの木造平屋構造で、応接談話室や食堂などの 5つの部屋があります。応接談話室は、屋根が一段高く、頂部にはドーム状の塔屋を備えています。西部劇に出てきそうな屋敷です。
(横須賀水交社平塚集会所)
第一次大戦が起きた1919年(大正8年)に、この火薬製造所は海軍に引き渡され「海軍火薬廠」となりました。同時に、英国人技術者は帰国します。
そのため、この洋館は「横須賀水交社平塚集会所」になり、海軍の将校たちの交流の場として使用されました。当時の従業員は600人です。
なお水交社とは、海軍の少尉候補生以上の武官と高等文官で組織された懇親団体のことです。
(震災を乗り越え)
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災がおき、ここ平塚周辺では、ほとんどの建物は倒壊しました。しかし、この洋館は奇跡的に倒壊は免れました。
下の写真は大正時代に撮影された洋館です。
(引用:パンフレット「ひらつか八幡山の洋館」より)
(神奈川第4の都市平塚)
1932年(昭和7年)4月1日の時点で、平塚は、横浜・横須賀・川崎に次ぐ神奈川第4の都市になりました。
軍需産業都市であったために空襲の目標となり、終戦の年の1945年(昭和20年)7月16日に平塚大空襲がおきました。
この空襲で市街地の7割が消滅しましたが、洋館は空襲をうけませんでした。
1950年(昭和25年)に洋館が横浜ゴムに払い下げられ、以後は迎賓館のように使われました。
この洋館は1955年(昭和30年)に神奈川県で開催された第10回秋季国体では、昭和天皇の休憩所としても使用されています。
2004年(平成16年)には平塚市へ寄贈され、その後、八幡山公園内に移築されました。
現在は、横浜ゴム記念館として展示保存されています。
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「旧横浜ゴム平塚製造所記念館 」となっています
とにかく、おしゃれな横須賀水交社平塚集会所です。