日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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9月9日 日本軍アメリカ本土爆撃 ~太平洋戦争中、唯一アメリカ本土を爆撃し、戦後アメリカ大統領からの賞賛を受けた藤田信雄~

太平洋戦争中、日本軍はアメリカ本土を空襲しています。9月9日、日本海軍の飛行機がアメリオレゴン州を空襲しました。これは太平洋戦争中にアメリカ本土が爆撃された唯一の記録です。
しかも米軍が日本本土に行った空襲と違い、民間人を狙っていない空襲なのです。

(日本本土初空襲)

1942年(昭和17年)4月18日、太平洋上に浮かぶアメリカ空母から出撃したB25爆撃機16機が、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃しました。
この空襲では、軍事施設への攻撃だけではなく、国際法で禁じられている「民間人に対する攻撃」が行われました。
当時、連戦連勝の勢いだった日本軍は不意をつかれ面目が丸つぶれとなりました。
そのため、日本軍は、「報復としてアメリカ本土を空襲しよう」と決定します。

しかし、ここで凄く重要な事ですが、日本軍は、民間人を狙った米軍の空襲とは違い、民間人を攻撃目標にはしていません。

日本海軍は、少量の爆弾でも延焼効果が期待できるという理由から、空爆目標をアメリカ西海岸のオレゴン州にある森林部にします。焼夷弾を投下して山火事を発生させ、
その延焼効果で近隣の都市部に被害をあたえることを目的としていました。

(米国本土初空襲の大役は30才に)
米国本土初空襲という重要な任務を命ぜられたのは、当時30才の海軍のエースパイロット藤田信雄でした。藤田信雄は、1912年(大正元年)に、大分県豊後高田市で生まれ、1932年(昭和7年)に21才で海軍佐世保海兵団に入隊します。そして翌年に霞ヶ浦航空隊の第20期操縦訓練生に合格し、パイロットの道を進みます。
太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)には、完成したばかりの潜水艦伊25号の飛行長となりました。


(米国本土初空襲)
1942年(昭和17年)8月15日、日本海軍の潜水艦・伊25号は、横須賀港からアメリカ西岸に向け出港します。
そして9月9日午前5時、オレゴン州の沖で藤田さんは76キロ焼夷弾2個を積んで零式小型水上偵察機で飛び立ちました。そして、およそ午前6時には、オレゴン州カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部のオレゴン州ホイーラーリッジに、2個の焼夷弾を投下し、森林部を延焼させました。
このときの空襲では、地上からの砲撃も米軍戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、
沖合で待つ「伊25」に帰還しました。

 藤田さんは同月29日にも再び空襲を成功させています。これが太平洋戦争で、ただ一度だけ行われたアメリカ本土への爆撃です。森林を爆撃し、延焼被害を狙ったものであり、ストレートに人命を奪うものではありませんでした。

 その後、藤田は、霞ヶ浦航空隊や鹿島航空隊の教官となり、やがて特攻隊になりました。しかし出撃の一週間前に終戦を迎えました。 
下の写真は藤田信雄と、乗機の零式小型水偵です。

 

(戦後アメリカに呼ばれ・・)
戦後、藤田は金物店を経営しますが、1962年(昭和37年)4月、一本の電話がかかってきました。
当時の内閣官房長官である大平正義(後の総理大臣経験)が至急お目にかかりたいというのです。東京赤坂の高級料亭に呼び出された藤田さんは、大平官房長官からこう言われました。「米国政府から藤田さんの身元照会が来たので対応した。アメリカ政府は、アメリカ本土を空襲した藤田さんの渡米を希望するかもしれない。アメリカは、真珠湾攻撃や捕虜虐待などで日本軍人への反感はまだ相当に根強いものがあり、もし渡米となって万一、報復を受けたとしても、日本政府はあなたの身を守ることができません。また日本政府は藤田が渡米されても一切関知しません。」と。
これを聞いた藤田は、「私も軍人の端くれ、万一の場合は、彼らの前で、腹を切る覚悟です。日本刀を持って乗り込むつもりですよ。」と答えたそうです。凄い!

 

(手紙)
大平正義官房長官と会って間もなく、外務省経由で藤田のもとに一通の封書が届きました。

 その手紙には、「アメリカは開国以来、外敵の侵入を許したことがなかった。日米戦争において貴殿はこの史上の記録を破って、単独でよく、アメリカ軍の厳重なレーダー網をかい潜り、アメリカ本土に侵入し、爆弾を投下した。貴殿の勇気ある行動は敵ながら実にあっぱれである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」と書いてありました。
てっきり、米国政府から戦犯扱いをされると覚悟していた藤田ですが、この紳士的な手紙の内容に首をかしげます。

(決死の渡米)
そして藤田は、渡米をします。
藤田が到着すると、待ち受けたブルッキングス市民が大歓声で迎えます。主催したブルッキングス青年会議所は「戦争を美化するものではなく、あくまで日米両国の友好と平和親善のため」という趣旨で藤田さんを呼んだのです。
藤田は、万一の場合には、自決をしようとして持参した日本刀を、平和を誓うしるしとしてブルッキングス市に寄贈しました。

そして藤田は返礼として、1985年(昭和60年)に開催されたつくば科学万博に、自費を投じてアメリカの女子高校生3人とその家族を招待しました。
この行為に対し当時のレーガン大統領は、藤田に、ホワイトハウスに一日掲げられた星条旗と、サイン入りの感謝状が届けられました。その中には、次のような感謝の言葉があります。

To Nobuo Fujita
With admiration for your kindness and generosity.
(貴方の好意と惜しみない心に敬意を表して)
大国であるアメリカの大統領が単なる一個人、しかも帝国軍人に賞賛を与えるなど非常にまれなことです。

空爆した都市の名誉市民決定の証書を受け取る日に)

その後も藤田は、ブルッキングス市を三度訪問し、爆撃地点に植樹をしています。
これらの功績で、藤田はブルッキングス市の名誉市民の称号も与えられました。

藤田は、1997年(平成9年)9月30日に85歳で亡くなりました。その死は「ニューヨーク・タイムズ」に大きく報じられました。
藤田が亡くなった日は、ブルッキングス市の友人が、藤田さんが名誉市民の決定を受けたという証書を持って来た日でしたが、くしくも藤田の葬儀に参列することになりました。
藤田の遺骨の一部は、その友人が分骨して持ち帰られます。そして藤田の一周忌にエミリー山の爆撃地点に散骨されました。そこには「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」と書かれた看板が立てられています。

アメリカ本土を爆撃した唯一の藤田飛曹長について書いた本】

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アメリカ本土を攻撃した3つの例)

太平洋戦争中、日本軍によるアメリカ本土攻撃は、この空襲の他に砲撃と風船爆弾

あわせて3回あります。

【砲撃】
まず最初は、真珠湾攻撃から約3カ月後の1942(昭和17)年2月24日(現地時間23日)、日本海軍の潜水艦「伊17」がカリフォルニア州サンタバーバラにあるエルウッド石油製油所を沖合約4キロの位置から14センチ砲を計17発、約20分にわたって砲撃し、砲弾のいくつかは命中しました。

6月21日には、日本海軍の伊十五型潜水艦が米国本土に入り、米軍基地を砲撃します。

風船爆弾

風船爆弾は、日本軍が開発した兵器で1944年(昭和19年)11月3日未明に3カ所の基地から同時に放たれました。

以後1945年(昭和20年)3月まで 千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の海岸にある
基地から、およそ9300個が放たれました。そして少なくとも300個程度が北米大陸

に到達したとみられました。


・・・ということで9月9日は
太平洋戦争中、唯一アメリカ本土が爆撃された日です。