おっさん、太平洋戦争当時、日本の名戦闘機の数々を
生み出した「中島飛行機」の跡地を訪ねる!!
「中島飛行機」・・・この言葉を目にしたら、戦争のことを少しかじった人ならピンとくると思います。
陸軍の「隼」「鐘馗」「疾風」などを製造し、海軍の「零戦」のエンジン「誉」を造っていた日本の航空機および航空機エンジンのメーカーです。
中島飛行機は、1925年(大正14年)11月に、 大根畑が広がる西荻窪の井萩村に中島飛行機荻窪製作所を完成させます。
この地は、JR中央線の西荻窪駅らから青梅街道へと歩いたところで、現在日産プリンスがあるあたり、桃井三丁目周辺です。
(世界の「中島飛行機」)
中島飛行機では、1927年から1945年までに日本で生産された3万機あまりの戦闘機の
うちの半数以上が制作されています。
中島飛行機が生み出した名機の数々を見ていきます。
1940年に皇紀2600年を記念して作られ、太平洋戦争初期には完全に無敵だった零戦(零式艦上戦闘機)が搭載していたエンジンは中島飛行機製の空冷星形14気筒「栄」でした。
ちなみに陸軍の名機「隼」のエンジンも中島飛行場で制作した「栄」です。
「零戦」「隼」この陸海軍の2大エース戦闘機のエンジンは中島飛行機が製造していたことになります。
その他、「紫電改」「疾風」のエンジン「誉」(陸軍名ハ45)なども生産されています。
この「誉」エンジンは民間機にも使用され1937年(昭和12年)には、朝日新聞社機の「神風号」が東京―ロンドン間を南回りで、94時間17分で飛行し、東京―ロンドン間国際都市間連続飛行記録の世界新記録として、国際航空連盟(本部:パリ)からの認定を受けています。
さらに、戦闘機の生産も行い、陸軍の「鐘馗」(米軍名「とうじょう」=開戦時の東条英機総理大臣から由来)特殊攻撃機「剣」、海軍では「天山」「連山」「彩雲」偵察機「彩雲」、日本初の国産ジェット戦闘機「橘花」など名だたる名機を生み出しました。
また、米国本土爆撃を目的としたZ計画の大型爆撃機「富嶽」も考案していました
このように中島飛行機は、東洋最大、世界でも有数の規模と技術力を持つ航空機メーカーでした。
1944年(昭和19年)末から米軍のB-29による、日本本土の飛行機工場への爆撃が
本格化すると、中島飛行場荻窪工場にもその標的となり、1945年(昭和20年)6月からは何度も空襲を受け被害が出ました。
(戦後)
中島飛行機は、終戦後、GHQから、解体命令を受け、解体し。現在の「SUBARU(富士重工業)」「日産」「マキタ」などにわかれます。
荻窪にあった中島飛行機の工場は、富士精密工業→日産自動車と引き継がれ、 日産自動車荻窪工場として使用されます。
初代スカイラインもここで開発されました。
今、敷地のはずれには「旧中島飛行機発動機 発祥の地」の石碑が残っていますが、
この地が、数々の名戦闘機を生み出した地だと気づく人は少ないようです。
(国産ロケット発祥の地)
「旧中島飛行機発動機 発祥の地」の石碑の後ろ、日産の看板の下には、「ロケット発祥之地碑」が立っています。
1954年、中島飛行機から富士精密工業へと引き継がれた荻窪工場では、九七戦や隼の設計協力などをした糸川英夫博士が、ロケットの研究を始めました。
鉛筆の大きさのペンシルロケットと呼ばれるものでした。
日産自動車の前身にあたる富士精密工業が、この地で日本最初のロケットを開発した
ことを記念して建てられました。
碑の中には当時開発したペンシルロケットのが埋め込まれています。
日本のロケットのスタートは、この荻窪、しかも鉛筆と同じ大きさの小さなロケットだったのです。これから様々な実験や実用化を行い、技術が進歩し、現在のロケットへとつながっていきます。
「中島飛行場」「ロケット」・・
いずれも日本技術が生み出したものです。
<<「中島飛行機」「ロケット」発祥の地>>
JR中央線西荻窪駅北口からでて青梅街道を右に曲がり徒歩15分程度、