日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

ダイエットの挑戦
重曹クエン酸水は効果がない
前立腺ガンやPSA
妖怪怪物
MENU

神奈川県平塚には、戦前、四十余万坪という広大な海軍火薬廠があった!! 海軍火薬廠の運動会の映像も紹介!

横浜ゴム平塚製造所一帯は、かつて海軍の火薬廠でした。
今も、それを物語る石碑
があります。

この石碑は横浜ゴム平塚製造所正門から歩いてすぐ近くの場所にあります。

碑は、碑高102㎝、幅255㎝、厚さ40㎝、台石33㎝で、1974年(昭和49年)に建立されました。

「海軍火薬廠の跡 岸本肇書」
ここを正面に 四十余万坪の地は海軍火薬廠の跡である
同廠は明治三十八年日本政府と英国アームストロング  ノーベル チルウォースの三会社との契約により設立された日本爆発物製造製造株式会社 を大正八年海軍省が買収したものであって爾来昭和二十年まで日本海軍の火薬技術の中心として数多い功績を残すと共に平塚市の発展と文化に多大の貢献をしたところ である
ここにその事績を偲びこの碑を建てる
昭和四十九年秋日   海軍火薬廠跡の碑建立の会  水島英耀書」

(国内で火薬製造技術を!)
1904年(明治37年)2月から翌年の9月の日露戦争では日本海軍が使用した火薬は、すべて日本と同盟関係にあった英国からの輸入に依存していました。

そのため日露戦争後に、海軍から日本国内で火薬製造所を新設すべきだという議論がわき起こります。その火薬製造所建設の地に平塚が選ばれました。
平塚が火薬製造所の場所に選ばれた背景には、大規模な火薬製造所を建設する土地が確保できたことと1887年(明治20年)に開通した東海道線によって火薬製造の原材料と製品の輸送に便利であったこと、また、軍都・横須賀に近いこと、相模川金目川に囲まれ良質な地下水が比較的容易に確保できたこと、などがありました。

 そして、日露戦争終結した1905年(明治38年)12月、日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)が、日英同盟のもと日本海軍とアームストロング社、チルウォース社、ノーベル社の英国三社の合弁会社として、平塚町と大野町に跨る官有地と民有地を買収した38万坪(後に42万坪に拡大)の地に本社ロンドン、支店平塚として設立されます。

 製造所の建設は、英国ノーベル社よりカリーが工場建設監督、ウィルソンが補助として来日、また日本海軍技師市岡太次郎などによって開始されました。
のちに1929年(昭和4年)に爆薬部が京都の舞鶴に移転、1939年(昭和14年)に支廠が

宮城県の船岡町に増設され、1941年(昭和16年)からは、船岡支廠が「第一火薬廠」、平塚本廠が「第二火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三火薬廠」に改称されました。
(超貴重映像:平塚の海軍火薬廠の運動会)
なんとなんと1933年(昭和8年)、と翌1934年(昭和9年)に、平塚の海軍火薬廠において行われた運動会の記録映像が国立映画アーカイブ歴史映像ポータルに残されていましたので、リンクを紹介します↓

<<海軍火薬廠跡の碑の行き方>>

JR平塚駅徒歩20分程度、横浜ゴム平塚製造所の正門付近
住所:神奈川県平塚市追分2-1

神奈川県平塚市にある火薬廠の碑。
日本の軍事の歴史を支えたことを記す貴重なものです