「古池や蛙飛びこむ水の音」
「名月や池をめぐりて夜もすがら」
五・七・五のわずか17文字で表現する素晴らしい情景描写の俳句・俳諧。
この松尾芭蕉の句を、誰もが一度は聞いたことがあると思います。
芭蕉は旅を人生と考え、各地を旅し俳句の作品を作り出してきました。
JR常磐線、東京メトロ日比谷線、首都圏新都市鉄道のつくばエキスプレスの3社の駅がある「南千住駅」。
おっさんは、たまたま南千住駅に降りたときに、この芭蕉の像に出くわしました。
「は~、ここがあの有名な奥の細道の旅行の出発地かぁあ」と。
偶然通りかかったところが、実は歴史の舞台だった。ということで、おっさんは感動しました。
案内板には、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出立したことが記載されています。
注:この南千住は荒川区ですが、足立区の北千住にも松尾芭蕉の像があり、足立区は
北千住から出立したと主張しています。
(奥の細道)
芭蕉は、1689年春、46歳の時に弟子の河合曾良と2人で奥の細道の旅に出ています。
3月下旬に江戸を出発して奥州に向かい5月に平泉到着。その後は日本海側に進路を変え北陸をめぐり、9月には岐阜の大垣に到着するという全行程2400キロ、150日の旅です。
その旅を題材にし「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行き交う年もまた旅人なり」という有名な書き出しで始まる俳諧紀行文が「奥の細道」です。。
150日にわたる旅では、難所もあっただろうし、歌を創作するために時間もかかったろうし、各地で俳句の講座や普及活動も行っただろうし、風景を楽しんだり、時には仲間と楽しい時をすごしたことでしょう。
計算すると1日十数里も歩いたことになり、芭蕉は相当な健脚の持ち主ということになります。そのため芭蕉の忍者説も出ています。
(おっさんの疑問)
そこで気になったのは、この150日間のこのツアー期間の全費用です。ざっと考えても宿泊費、食費、時には団子を食べたり酒でも飲んだかもしれません、今みたいに道路も舗装されていませんし険しい山道もあったでしょうから、わらじも何足か履きつぶしたと思います。旅の季節が春から夏そして秋と過ぎていったため衣類も何着かは購入したと思います。
さらに、この旅には同じく俳人で弟子の河合曾良が同行しています。河合曾良は、旅のスケジュール管理を行ったらしく、道中の頼れる秘書という感じだったと思います。
(この曾良は、随行を記録した「曾良旅日記」を書き残していて当時の旅の様子がわかります。)
この曾良の道中のお金ですが、「料金は割り勘」というわけでなく、師匠の芭蕉が多く負担したのだと想定されます。
そう考えると、1日1.5万円かかったとしても150日もあれば総費用は225万円になる計算です。
この全行程のこのツアー期間の全費用はどうしたのか?
文献を読んだり人に聞いたりしたところ、これには、「旅に出る前に住み家を売却したのでまとまった大金があった」「パトロンがいた」、「寄付金や餞別を多くの人からもらった」「旅の各地で俳句の講座を行い、お金を得た」などの、色々な意見や説がありました。
当時は、農家も商人も物を売ったお金で生活をしている人がほとんどでした。そういう中で半年近く家を空けて各地を旅しながら生活ができた、費用のバックボーンがあったということは、よく考えるとうらやましいものです。
(当時の背景)
5代将軍徳川綱吉の時代で、江戸幕府体制は安定期。巷には生類憐みの令が施行されていました。
大阪や京都といった「上方」を中心とした「元禄文化」が栄え、浮世草子「好色一代男」井原西鶴や浮世絵「見返り美人図」の菱川師宣、「風神雷神図」の尾形光琳、人形浄瑠璃「曽根崎心中」の近松門左衛門などの町人文化が栄えていました。そのような中で俳諧も栄えてきました。
<<南千住の松尾芭蕉像への行き方>>
JR常磐線、東京メトロ日比谷線、首都圏新都市鉄道のつくばエキスプレスの「南千住駅」。
(周辺情報)
前野良沢と杉田玄白がターヘルアナトミアをもとに解剖を行い「解体新書」を作ろうと思いついた場所で吉田松陰や鼠小僧の墓がある回向院が徒歩3分のところにあります。
日本中を何度も旅した人生・・・いいもんですなあ。あこがれます。
おっさんは生活費や旅費など資金面の大きな問題があり、そんなことは一生できないでしょうが・・・。