福岡県北九州市小倉北区にある小倉城。
昔、小倉城に登ったことがありますが
2023年(令和5年)6月3日(土)に
再び中に入ったら
展示内容がリニューアルしていました。
2019年(平成31年)3月に、
展示内容と内装を約30年ぶりに
リニューアルしたそうです。
(交通の要所にできた小倉城)
関門海峡に面した小倉は陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。
小倉城は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことが始まります。
1602年、細川忠興に約7年の歳月を費やし小倉城を作ります。これは城下町全体をつくりあげる壮大な都市計画でした。城下町では、城を中心にまわりに家来の武士が住み、それを囲むように町人が住んでいました。
1632年には、小笠原忠真に城主が代わり、将軍・徳川家光から「九州の諸大名の監視係の役目」を任じられたそうです。
小倉は地理的に玄界灘に面していて朝鮮半島や中国大陸に近く、また本州と九州を結ぶ玄関口として、さらに中津街道や長崎街道の出発点として重要な地点として発展していきます。
江戸時代、日本は鎖国政策をとっていましたが唯一、長崎市の出島がオランダと貿易の窓口であり、長崎街道を通じて西洋の文化、文明などが持ち込まれてきました。
さらに小倉城に近い常盤橋(下の写真の青で囲んだ部分)は、九州各地に通じる各街道の起点でもあり、交通の要所でした。
常盤橋周辺の賑わいは、小倉城内の人形で再現されていました。
(小倉城の中は・・)
小倉城の入り口です。入場料は大人350円です。
1階のシアターでは、小倉出身の草刈正雄さんのナレーションで小倉城400年の歴史を
紹介する約10分の映像を上映しています。
また、当時の暮らしぶりを体験するコーナーがありました。
2階では小倉藩を治めた細川家、小笠原家の歴史を学ぶことができます。
小倉藩初代藩主は細川忠興です。この細川忠興の妻が明智光秀の娘の細川ガラシャです。細川ガラシャは、1600年に石田三成が大阪の屋敷を囲んだときに、家老の小笠原秀清に命じて介錯させ、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けてました。
そのガラシャを偲んで小倉で行ったミサを再現した人形劇がありました。
3階は,巌流島特集。小倉藩に縁の深い宮本武蔵と、小倉藩の剣術師範で武蔵と巌流島で戦った佐々木小次郎のことが紹介されています。
5階は小倉の街を一望することができる展望スペースです。
写真は展望スペースから見た小倉城庭園です。
(幕末・小倉城は炎上)
幕末期になると、幕府側の小倉は、長州藩を攻める第一線基地となります。
1866年、第二次長州征討が行われ、小倉城は高杉晋作率いる奇兵隊を中心とした長州軍の猛攻を受け、その時自ら城に火を放ち敗走します。
明治時代から第二次世界大戦中は、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。作家の森鴎外もいました。
小倉城内にあった師団司令部は、日露戦争(1904年―1905年)などで活躍したあと、
1925年(大正14年)に同じ福岡県の久留米に移転します。
(南蛮造り)
小倉城は全国でも珍しい「南蛮造り」の天守が残されている城(復元)です。
この南蛮造りの城は、現在も残っているのは山口県の岩国城と、この小倉城だけと言われています。
ただし小倉城は、復興天守です。復興天守とは、天守が存在していたことは確かですが、史料が乏しいために他の城の天守を参考にしたり、想像したりして再建した天守の事です。
小倉城の天守閣は、江戸時代初期に細川忠興によって造られましたが、1837年に火事で焼失します。
現在、見ることができる天守は1959年(昭和34年)に再建されたものです。
南蛮造りとは、下階より上階の平面を大きく造って張り出させたもので、外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出しています。
※写真のお城の最上階が張り出た南蛮造り(唐造り)です。
(しろテラス)
小倉城のふもとには、「しろテラス」という名前の案内所があります。
「しろテラス」内部は広々として、土産物が販売されていて、休憩ができます。
無料wifiも飛んでいます。飲食も可能です。
「しろテラス」前では、毎年7月に小倉のお祭り・小倉祇園祭りが行われます。
小倉祇園は、小倉城に鎮座する八坂大社の大祭で江戸時代以来400年の歴史を持ちます。
小倉祇園祭りは太鼓の両面打ちが特徴です。
【小倉祇園太鼓のHP】
【小倉城公式ホームページ】
【小倉城についての本はこちら】
<<小倉城への行き方>>
JR鹿児島本線小倉駅から徒歩7分程度、西小倉駅からでは徒歩5分程度
入場料:一般350円、中学生、高校生200円、小学生100円
開館時間:9:00~18:00(冬場は17:00まで)
小倉城、見晴らしもいいし中の展示物も楽しいです。
是非、御覧下さい。