京都伏見の京橋一帯。
ここは、江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟などの運搬船で賑わい、交通の要所として栄えました。
この橋のすぐ横に「伏見口の戦い激戦地跡」と言う石碑が建っています。
(幕府軍 政府軍の激戦地)
この周辺は幕末に鳥羽伏見の戦いが繰り広げられました。
時代の流れを見ていきましょう。
幕末の1867年(慶長3年)10月14日、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が二条城で大政奉還を行います。
同年12月9日、王政復古の大号令が出ます。
そして徳川慶喜には辞官納地が命じられますが、二条城にいた慶喜は、それに同意する気が全くないため、回答をうやむやにし13日に大坂城へと移動します。
年が変わって1868年(慶應4年)正月2日、徳川慶喜から薩摩討伐の命を受けた旧幕府軍約1万5000人が大坂城を出発します。
同日夕刻には、大坂からの先鋒隊の会津藩士約200名が船で伏見の京橋に上陸し、伏見奉行所に近い伏見御堂に宿泊します。
さらに3日には、旧幕府軍の指揮官・陸軍奉行の竹中重固が伏見奉行所に入り、ここに本営を置きます。
一方、新政府軍は、京都の東寺に本営、伏見奉行所の北約150メートルにある御香宮神社には薩摩兵800人が駐屯し、伏見市街地北には長州兵150人が配置されます。
3日の夕方、鳥羽伏見の戦いが勃発。
薩長を中心とした新政府軍と、幕府歩兵隊・会津藩兵・新選組など旧幕府軍の間で激しい戦闘が行われます。
4日、西洋の最新兵器で軍備を固めた明治政府軍に敗れた旧幕府軍は、民家に火を放ちながら淀方面に敗走します。
そのため、このあたりの多くの民家が焼かれ、この辺り一体が焼け野原になるなど大きな被害を受けます。
坂本龍馬暗殺未遂の寺田屋はここから徒歩3分程度。その寺田屋もその時に焼失したと言われています。
【寺田屋について書いたブログはココ】
(交通の要所として発展)
京都の伏見は、江戸幕府には、宿場から運ばれてきた公用の荷物を次の宿場まで運ぶ
伝馬所(てんまじょ)という運搬サービス業や普通の荷物を馬で運ぶ運送業の馬借、
さらに行き交う旅人で賑わっていました。
特に京橋周辺は、水運で京都、大阪、山城などとつながる交通の要衝でした。
【三十石船に浮いて書いたブログはココ】
京橋から蓬莱橋北詰を結ぶ一帯には、大名が宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した
脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。
今は静かな川のほとりですが、かつては鳥羽伏見の大激戦地だったわけです。
当時、ここで激戦が繰り広げられたことは、今は1本の石碑が物語っています。
<< 伏見口の戦い激戦地跡への行き方>>
住所:伏見区南浜町(京橋北詰東側)