「嗚呼 弟よ 君に死に給うことなかれ・・・」
その与謝野晶子の像が、
これは与謝野晶子の生誕140年を記念1998年(平成9年)5月29日に建立されたブロンズ像で幅:130センチ 奥行き:130センチ 高さ:235センチです。
(堺に生まれる)
与謝野晶子は、1878(明治11年)12月7日堺県堺区(現在の大阪府堺市)甲斐町四六番屋敷にあった菓子商「駿河屋」の二代目鳳宗七の三女として誕生しました。
良家のお嬢ちゃんです。
(旅順攻囲戦に行く弟に向けて「君死に給うことなかれ」)
堺女学校を卒業後、1901年(明治34年)22歳の時に歌集「みだれ髪」を発表。
日露戦争中の1904年(明治37年)9月に雑誌「明星」に発表した長詩「君死にたまふこと勿れ」は、出征し旅順に行った2歳年下の弟・籌三郎(ちゅうさぶろう)の
ことを案じて詠んだもので、教科書によく出る有名な歌です。
当時は男尊女卑が強く与謝野晶子は弟にも「死に給うことなかれ」と敬語を使っています。
この歌は、「戦場に行く兵士に死なないで」と訴えたり「天皇の事を持ち出している」ことから国賊的であると批判を受けました。
(「君死に給うことなかれ・・の弟はどうなった?)
で、与謝野晶子が「明星」で紹介した、この弟・籌三郎がどうなったのか、おっさんはすごく気になりました。
だって冷静に考えてみて下さい。たぶん本人に知らせないまま姉ちゃんが雑誌に発表した歌が日本で大騒ぎになったんですよ。
その歌の題材となった弟の籌三郎は、当然皆から「あいつが明星で書かれていたあの弟だあ」と言われたに違いありません。軍隊で何か陰湿ないじめにあってなかったのでしょうか?
あるいは和菓子屋を営む実家も近所の人から反戦家族だと白眼視されなかったのでしょうか?
与謝野 晶子の二歳年下の弟の鳳 籌三郎(ほう・ちゅうさぶろう)は、大阪第4師団8連隊・第三軍輜重兵として日露戦争に従軍します。
しかし旅順攻囲戦には参加していないのでは?という意見もあります。
というのは、当時ほとんどの兵士は読み書きができなかったというなかで、 籌三郎は
文字の読み書きが達者であったため、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めていたという説があります。つまり戦場には行ってないという説です。
籌三郎は、日露戦争で戦死することなく無事に生還し、実家の和菓子屋の主人となり、1944年(昭和19年)64歳で亡くなっています。
ちなみに籌三郎の長兄・秀太郎は、のちに東京帝国大学教授となります。
(大正時代の文学をけん引)
晶子は、大正時代に入ると社会評論を多く執筆し、大正デモクラシー期の文学をけん引します。
また 古典の研究にも力を注ぎ、特に「源氏物語」の現代語訳を作成するほか、「新訳栄華物語」、「和泉式部歌集」の現代語訳も作成しています。
1942年(昭和17年)5月29日数え65歳で死亡します。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
(略奪愛と13人の子供)
与謝野晶子の御主人は与謝野鉄幹ですが、与謝野鉄幹は女学校の先生で行く先々で色恋沙汰を起こすとんでもない人でした。教え子に次々と手をかける女学校の教師なのです!(おいおい!)
で、結婚した最初の妻も次の妻も教え子でした。
晶子と出会ったときも不倫で、2番目の妻と別れ晶子と結婚します。「みだれ髪」発表した2か月後でした。
そして最終的には12人の子供を産みました!(おいおい!!)
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
黒御影石の台には、
晶子の望郷の歌
「ふるさとの 潮の遠音のわか胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」が刻まれています。
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