平安時代末期の旧暦1164年12月17日、
京都に三十三間堂が完成しました。
(三十三間堂紹介)
三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂・法住寺殿(ほうじゅうじでん)の一角に建てられた仏殿です。
三十三間堂は、旧暦の1164年12月17日(ユリウス暦1165年1月30日)に完成。
当時は境内に五重塔もある寺院でした。しかし1249年に焼失しています。
現在のお堂は、1266年の鎌倉時代に再建されました。
南北約120mの本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂と呼ばれます。
こちらが蓮華王院・三十三間堂の正面入り口です。
蓮華王院・三十三間堂には、丈六千手観音坐像、1000体の等身大千手観音立像、風神・雷神像など多くの国宝や重要文化財があり、古くから観光の名所として親しまれてきました。
下の写真は明治期に撮影された三十三間堂です。
(出展:1907年(明治40年)刊行 京都名所帖:国立国会図書館デジタルコレクション:https://www.ndl.go.jp/scenery/kansai/data/205/)
(武蔵決闘の地)
蓮華王院・三十三間堂は、宮本武蔵が吉岡一門の吉岡伝七郎と決闘をした場所としても知られています。
宮本武蔵は、21歳の時、剣の名を上げるために、足利将軍の剣術指南役を務めたことがある京都の有力な剣術道場である吉岡道場に戦いを挑みます。
武蔵が道場を訪れたときには、師範の清十郎が不在でした。
そのため道場で腕が立つと評判だった門弟たちを次々に倒し、清十郎に挑戦状を送ります。
さらに、京都の五条大橋に決闘を伝える高札を揚げ、市民に決闘を周知し、清十郎が
逃げることをできなくします。
そして1604年の春、京都の蓮台野(れんだいの)で吉岡道場師範の吉岡清十郎との果し合いをします。ここで武蔵は、遅刻作戦を行い、清十郎を木刀で倒します。なお、この時、清十郎は死亡していません。
それから間もなくして、今度は吉岡清十郎の弟と伝七郎と蓮華王院・三十三間堂で戦います。
(三十三間堂での戦い)
吉川英治が書いた『宮本武蔵』では、この三十三間堂の南側にある長い縁側で武蔵と
吉岡伝七郎が決闘しています。
両者は、100メートル以上のこの長い廊下を走り、一瞬のスキを突いた武蔵が伝七郎を倒したとされます。
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(的の射場)
蓮華王院・三十三間堂の縁側は、的の射場としても有名です。
安土桃山時代や江戸時代には「通し矢」と呼ばれる行事が盛んに行われました。
安土桃山時代には120mの距離からお堂にある窓の隙間を通す「百射・千射」、江戸時代には、一日かけて弓矢が何本お堂の軒下を通ったかを競う「大矢数」が盛んだった
そうです。
(太閤塀)
三十三間堂には、豊臣秀吉によって寄進された為、その時の屛が「太閤塀」として残っています。
<<三十三間堂への行き方>>
おっさんたちは、JR京都駅から歩きました。徒歩25分くらい。
JR京都駅から市バスで10分(100・206・208系統「博物館三十三間堂前」下車すぐ) 京阪七条駅から徒歩で7分
定休日 :年中無休
営業時間 :8:00~17:00(11月16日~3月末日までは9:00~16:00)
料金 :一般600円、中高校生400円、子供300円