船に乗り、扇子を片手に勢いよく荒海に乗りこむ青年。
この青年は紀伊国屋文左衛門です。
おっさんは、貧乏な家に生まれたので自分の才覚で財を成した人を尊敬し、自身も財を築きたいなあと思っています。(ただ、まだその領域には至っていません)
その尊敬する商人の1人が紀州・和歌山が生んだ豪商・紀伊国屋文左衛門です。
(紀州大尽と呼ばれた男)
紀伊国屋文左衛門と言えば、暴風雨の中、紀州から紀州のミカンを運び大儲けした
「ミカン船伝説」や、その資金を元手に、江戸で材木商を始めて、巨万の富を稼いだ
人物で「紀文大尽」とも呼ばれました。
(文平の像)
紀伊国屋文左衛門が、まさに出航しようとする姿の銅像が、和歌山県湯浅町のJR湯浅駅から徒歩2分の場所にあります。「文平の像」です。
「文平」というのは紀伊国屋文左衛門の幼い時の名前だと言われています。
紀伊国屋文左衛門は、江戸時代の1669年ごろ、紀伊国湯浅の別所で生まれたという説があります。
この像は1998年(平成10年)に建てられました。
(ミカン船伝説)
紀州は昔からミカンの栽培が盛んで、収穫されたミカンは船で日本各地に運ばれていました。
そして文左衛門が若いころ、紀州ではミカンが大豊作になります。
このミカンを大消費地の江戸に運ぼうとしますが、嵐や暴風雨で江戸への航路が閉ざされてしまいます。
そのため紀州の港には、江戸送り用のミカンが山のように積まれたままとなります。
しかし、荒れ狂う海の中、命の危険をおかしてまで江戸に向けて船出をするものはいません。
するとミカンを江戸へ運べないので地元ではミカンが余ってしまいミカンの価格は暴落します。
一方、江戸では毎年旧暦の11月8日に鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」が行われていました。この祭りは、鍛冶師が、みかんを鞴(火に風を送る道具)の神棚に供え、鍛冶屋の屋根からミカンをバラまいて地域の人に振舞っていました。
ですから、この祭りには、ミカンが欠かせないのです。
しかし、紀州からミカンを積んだ船が来ないため、江戸ではミカンが品薄状態となり、結果としてミカンの価格が高騰します。
「ミカンが紀州では安いが、江戸では高い」、、つまりこのことを利用すれば「ミカンの価格が安い紀州でミカンを大量に購入し、高く売れる江戸に運んで販売すれば商売になる」そう感じた紀伊国屋文左衛門は、ミカンを買い集めます。
そして、嵐の海の中、白装束に身を包み、下津港から江戸へ向かい、ミカンを船で運びます。
荒れた海、大波を越えながら、文左衛門は江戸へたどり着きます。
ようやく江戸にたどり着いた紀州のミカンは、ミカンが不足していた江戸で高く売れます。
同時に、「嵐を乗り越えて売りに来た」というストーリーも、江戸っ子のハートをつかみます。
命を失うかもしれない嵐の中で一か八かの出航をし、無事江戸に着くという幸運に恵まれ文左衛門は大儲けをします。
(さらに才覚を発揮し大金持ちに!)
こうしてミカンを運び大儲けをした文左衛門ですが、さらに戦略は続きます。
大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っているという知らせを聞いた文左衛門は、江戸にある塩鮭を買占めます。その一方で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流します。
今と違い医学知識も薬も不十分な時代、上方の人は、この噂を信じて塩鮭を買い求め、文左衛門が運んだ塩鮭はすぐに売り切れます。一種の情報戦略です。大したもんです。
こうして江戸や大坂で商売を成功し、大金を手にした文左衛門は、元禄年間に江戸に
うつり材木問屋を開きます。
なぜ材木問屋か・・。当時江戸では「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるくらい火災が多く起きていました。いったん火事になると広範囲で街が燃えます。火事が発生するとそのたびに復興作業が必要で、建築が大規模に行われることから材木問屋は繁盛し、また幕府の役人と通じたことから御用達の材木商人になります。
こうして文左衛門は、知恵と才覚で豪商へと出世していきます。
お見事としか言いようがないです!!
(その後の文左衛門)
知恵と運で成功し、一代で財を成した文左衛門ですが、その後、深川木場を火災で焼失したことから材木屋を廃業します。
また、幕府から十文銭の鋳造を請け負いますが、文左衛門の造った十文銭はとても質が悪く1年で通用が停止され、大きな損失を被ります。
文左衛門の死後、紀伊国屋は2代目が継ぎますが、商才がないのか没落していきます。
<<紀伊国屋文左衛門、文平の像への行き方>>
JR湯浅駅徒歩2分
情報を的確につかみ、
わずか1代で財を成した
その生き方には尊敬します。
おっさんも金持ちになるぜえええ~