1906年(明治39年)1月15日、
坂本龍馬の妻・お龍さんは
66年に及ぶ激動の人生を終えます。
(京都にある実家跡)
京都市の柳馬場三条下ルの此付近は、坂本龍馬の妻・お龍の実家跡です。
お龍さんは、坂本龍馬の妻と言うことで激動の人生を歩みました。
お龍さんの実家跡は三条通りから柳馬場を下った場所で、現在は石碑があります。
龍馬の妻となるお龍(おりょう)さんは、幕末の1841年6月6日、医師である楢崎将作の長女として生まれました。生後しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。
お龍さんの父・楢崎将作は、久邇宮朝彦親王(中川宮)の侍医をつとめるなど皇族や公家とも交流があり、一橋派の活動家である頼三樹三郎や池内大学とも交際がありました。そのため1858年に起きた安政の大獄で捕らわれます。
翌年に釈放されましたが、3年後に亡くなってしまいました。
大黒柱を失い楢崎家の生活は困窮し、お龍さんの妹が大阪の遊郭に売り飛ばされそうになります。
このとき、お龍さんは遊郭に乗り込み、向かってきた男を殴り飛ばし、火鉢を投げつけ、妹を奪還したという武勇伝があります。勇猛な女性ですね。
(坂本龍馬と結婚)
1864年、京都で池田屋事件と禁門の変、四カ国艦隊下関砲撃事件という大事件が立て続けに起きますが、お龍さんの回想によればこの年の8月1日に龍馬とお龍さんは夫婦となったそうです。(結婚に関しては諸説有り)
1866年1月21日に薩長同盟が成立します。
この同盟締結に大きな活躍をした坂本龍馬ですが、同盟締結2日後の1月23日、宿泊していた寺田屋が襲撃されます、寺田屋事件です。
寺田屋事件では、危険を察知した入浴中のお龍さんが、湯船から飛び出し龍馬に危険を知らせています。乱闘中に坂本龍馬は左手の親指を負傷しますが、脱出に成功します。
このとき、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り助けを求めます。
その後、坂本龍馬とお龍は京都の薩摩藩邸に移ります。
やがて、薩摩藩船「三邦丸」が大坂を出港します。この船には西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎、三吉慎蔵、そして、お龍さんも乗船していました。
龍馬とお龍は薩摩に向かい、高千穂峰に登るなど日本初の新婚旅行を楽しみます。
(下関での2人での生活)
1867年2月10日坂本龍馬はお龍を連れて下関の豪商・伊藤助太夫を訪れ、ここの1室の
自然堂を借り二人は過ごします。
当時使用していた井戸が今もありました。
下関滞在中、お龍と龍馬は巌流島に行き花火を上げたという話もあります。
龍馬は相変わらず日本各地を飛び回り、不在が多くお龍はここで妹・起美と日々を過ごしていました。
同年9月20日、坂本龍馬は伊藤博文に会うため下関を訪れ、22日には土佐に向かいます。
これが、お龍が、坂本龍馬に会った最後となりました。
(龍馬暗殺後のお龍さん)
1867年11月15日、龍馬が暗殺されます。
坂本龍馬が暗殺されたときもお龍さんは下関にいました。
暗殺当夜には、血まみれになり、刀を下げてしょんぼりとした龍馬が枕もとに立つ夢を見たとも言われています。
そして12月2日、龍馬の訃報が届きます。
龍馬の死後、お龍さんは、一時、下関にある桜山招魂社のお茶屋の「あけぼの」にいました。その後、土佐の坂本家に身を寄せますが、龍馬の兄夫婦と気が合わず土佐を去りました。
30歳のときに商人・西村松兵衛と再婚して横須賀に住みます。西村ツルと名を変え最初は大津、次に米が浜に住んでいました。
1906年(明治39年)危篤に陥り、1月15日に亡くなります。享年66。
坂本龍馬に関してはこの漫画本がお勧めです
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激動の時代に生まれ、坂本龍馬の妻となり、
幕末から維新を駆け抜けた生涯・・・。
なんと波瀾万丈だったんでしょうか・・