「これはあり得ない事と思っていたのに まさかこんなことが起きるとは!!」
・・こういう体験はあると思います。
江戸時代末期に起きた薩摩藩と長州藩が手を結んだ薩長同盟もその1つだと思います。
(敵対する薩摩と長州)
薩長同盟を簡単に言うと、薩摩藩と長州藩が政治的・軍事的に協力をするという
密約の同盟です。
坂本龍馬の仲介により京都で薩摩藩の小松帯刀と西郷隆盛、長州藩の木戸孝允らが
出席し、成立しました。
薩摩藩は、公家と武家を合体させる公武合体派という考えを持っていました。これは、江戸幕府と同じ考えです。
一方長州藩は尊攘攘夷派でした。
そのため、これまで 長州と薩摩は激しく対立していました。
1863年は天皇を巻き込んでクーデターを狙った長州藩と公家の三条実美らを、 薩摩藩と会津藩それに孝明天皇らが阻止した事件が起きます。これを八月十八日の政変と言います。
その翌年の2月には、凄まじい情報操作の謀略事件といえる南御堂割腹事件が起きています。
【南御堂 割腹事件について書いたブログはココ】
さらに同年7月には、長州藩が京都御所周辺で薩摩・会津・桑名藩と戦った蛤御門(禁門)の変が起きています。
このように、お互いが憎みあい殺しあう関係 つまり、長州藩と薩摩藩は天敵状態でした。
まさかその2つ藩が手を結ぶとは誰も想像していなかったでしょう。
(同盟成立の背景)
薩摩藩は薩英戦争、長州藩は四カ国連合艦隊による占領で外国の力を知り、
お互い討幕を強く意識します。
【馬関戦争について書いたブログはココ】
この時期、坂本龍馬は長崎に総合商社の走りといえる亀山社中を発足させようとして
いました。
亀山社中の設立資金を提供していたのが、薩摩藩の家老の小松帯刀、さらに亀山社中が銃器や軍艦を売ろうしていたのが長州藩でした。
つまり龍馬は薩摩と長州の両方とのパイプを持っていたのです。
また、龍馬は薩摩の西郷隆盛や小松帯刀・が長州との和解を希望していることを
知ります。
そのため龍馬は長州藩の実質的な立場にある桂小五郎(木戸孝允)に、「薩摩が同盟を結びたいというので会ってくれ」と言います。
小五郎は殺し合いをした薩摩の方から、長州と手を結びたいという事は信じられず、
なかなか納得しませんが、最後には「薩摩が下関に来るなら」と承諾します。
同時に龍馬は僚友の中岡慎太郎に鹿児島に行ってもらい西郷隆盛に長州の下関に来てくれるよう要請し承諾を得ます。
しかし、西郷隆盛は下関を無視して素通りし京都に行きます。
当然、長州側は「おいおい ふざけんなよ」と怒り、この会談は白紙になります。
(薩長同盟成立)
一度は流れた薩長会談でしたが、やがて、色々な調整が実を結び1866年1月8日、
京都で薩摩長州双方の会談が開始されます。
しかし、薩摩と長州の同盟の話は全然進展しません。
1月20日、会談開始12日後となるこの日、坂本龍馬が姿を現します。
そこで龍馬は、会談が進まないことに驚き、いらだちます。
会議が進展しない事を龍馬に詰め寄られた桂小五郎は、メンツの問題なのか「薩摩から話を出してもらわないと、話が進まない」と言い出します。それを聞いた龍馬は西郷隆盛のところに行き薩摩から薩長同盟を切り出すようにお願いします。
そして、西郷隆盛は「この国を救うため、薩摩は全精力をもって長州に御味方し申す」と述べ1866年1月21日、まさかの薩長同盟が成立となりました。
その後、同盟に基づき、薩摩藩は第二次長州征伐には参加せず、やがて長州藩と協力し
討幕へと進んで行きます。
・・・という事で
1月21日は薩長同盟が
締結された日です。