終戦末期、日本海軍はB29迎撃用に
従来とは違う形の戦闘機を開発していました。
局地戦闘機・震電です。
(海軍局地戦闘機・震電)
下の写真は、終戦直後の1945年(昭和20年)、米軍に接収され、復元された後に撮影された震電です。
御覧のように震電は、従来の戦闘機とは大きく異っています。
先端はとがっていて、機種の後ろにプロペラがあり、前に進みます。
(大刀洗平和記念館に展示されている震電の復元)
福岡県の太刀洗(たちあらい)、ここには、戦前、東洋1を誇った陸軍太刀洗飛行場
および飛行学校がありました。
現在、その敷地には大刀洗平和記念館があり、ここに実物大の震電の模型が展示されています。
下が上から見た震電の全体像です。
全長9・76メートル、両翼の幅は11・11メートル。
頭部は、ジェット戦闘機のような形をしています。
後部には直径3・4メートルのプロペラが取り付けられています。
当時としては非常に画期的な戦闘機でした。
どうして震電は、このように従来の戦闘機とは全く違う形をしているのか?
その理由を見てみます。
(B29を迎撃せよ!)
太平洋戦争末期からB29が日本本土を空襲し焼け野原にしていました。
B29は高度1万メートルを最速570キロで飛行します。一方、それを迎え撃つ当時の戦闘機は高度8千メートル、最高速度は600キロ台がやっとでした。
そのためB29を迎撃するには、装備を出来るだけはずして機体を軽くし上空に行きB29を体当たりで撃墜する方法がとられていました。
(画期的なエンテ型)
高度1万メートルを飛行するB29を迎撃するために、福岡市の九州飛行機が局地戦闘機・震電の開発に乗り出します。
震電の目標は高度1万2千メートル、最高速度は時速750キロでした。
その目標を達成するため震電は、従来の戦闘機とは全く逆のスタイルになりました。
それは、「前翼型飛行機」。
プロペラは機体後部に取り付けられ、主翼は後方に移動した「エンテ型」(「エンテ」はドイツ語で鴨の意味:鴨が飛んでいる姿に似ていることから「エンテ型」と呼ばれていました。)でした。
(空気抵抗をなくし時速750キロを目指す)
通常、戦闘機は機体の前部にプロペラ、エンジン、操縦席、爆弾や魚雷、燃料タンクなどが詰め込まれていました。一方、機体の後部は水平尾翼までは、中が、がらんどうになっていました。
そこで震電の開発にあたっていた海軍航空技術廠の鶴野正敬大尉は、通常は戦闘機の前部分に設置しているエンジンとプロペラを後ろに取り付けることを考えます。
こうすることで戦闘機は先端が尖った形になり空気抵抗を小さくすることができます。当時は、ピストンエンジンの限界は時速700キロと言われていましたが、こうして震電が目標とする時速750キロ以上が計算上は可能になったのです。
(8月3日試作機初飛行)
1945年(昭和20年)6月、震電の試作機が完成し、8月3日には初飛行に成功します。
さらに8月6日と8日にも試験飛行を行い成功しました。
しかし1週間後の8月15日、終戦を迎えます。
米軍に接収された3機の震電のうち、1機は分解され、ワシントンのスミソニアン博物館に運ばれ、他の2機は破壊されました。