この写真は江戸時代に、豪商が発行し流通していたお札です。
「飴屋札」といいます。
この飴屋札を発行していたのが福岡県の小倉藩の豪商飴屋です。
現在の福岡県行橋市には、飴屋の門が残っています。
これです。。大型時代劇で出てくるような素晴らしさ!!
小倉藩藩主を迎えるために建てた門で「御成門」と呼ばれています。
門は天保年間(1830~44年)頃に建てられたそうで、本瓦葺き。
幅5.8m、奥行2.2mの総檜造りです。
(豪商飴屋)
飴屋は江戸時代、宝永年間(1704~1711)頃から栄えた小倉藩屈指の大豪商で、同時に小倉・小笠原藩十五万石の財政に尽くしました。
飴屋は、江戸時代の1666年に創業し、1709年、三代目の彦右衛門・宗利(そうり)が、飴を作ったら、その飴が大当たり!!
当時の飴はベタベタして歯切れが悪かったのですが、宗利が作った飴は、口当たりが
さっぱりして評判になりました。そして商品を屋号に変えました。
下は、飴屋があった周辺地図です。その地図を見ると、川に面した場所には飴屋の倉庫が並んでいたのがわかります。
飴屋は、すぐ近くに川が流れ街道もあるため、陸路や河川を利用し近辺から物資を
集め、大坂など上方に運び商売を拡大していきました。
さらに飴屋は飴以外にも綿実(油の原料)商、酒造業などにも乗り出し総合商社のように発展します。
(快哉楼)
飴屋の敷地内には天保年間に建てた三層四階建ての「快哉楼」という建物がありました。
当時、小倉藩では、身分の低い町人が武士を見下ろすのは無礼であるという理由で、
百姓や町人の住宅は、二階建ても許されなかった時代でした。
しかし飴屋は例外で認められ、内部には絵のアトリエまで備えたそうです。
さらに時代が進むと、飴屋は苗字帯刀を許されて、玉江の姓を受け小刀を帯びることが許可されるなど、武士ではないものの武士並の資格を与えられます。
殿様が、領内視察をするときには、飴屋が本陣となりして、屋敷内には殿様を迎える
「お成り座敷」がありました。
ちなみに快哉楼は老朽のため、1946年(昭和21年)頃、解体されました。
(紙幣発行)
飴屋の繁盛を示すものとして「飴屋札」があります。
この「飴屋札」は、飴屋が発行していた紙幣で、飴屋があった行橋を中心とする
札には「京都郡行事住 飴屋」の屋号が刻まれています。
藩が発行する藩札と違って、この飴屋札は版元である飴屋の信用が支えです。
・・ということから、飴屋が、いかに繁盛し、また信用が高かったかがわかります。
この「飴屋札」は、天保年間に3回発行されています。
額面は、当時の正貨である銀を見合いにして、十匁(もんめ)、五匁、一匁、五分、
三分、一分、と、他の商人札(銭札)よりも高額になっています。
私札の流通は、1855年10月まで約20年続きました。
(明治初期の長者番付にも登場)
1872年(明治5年)に発行された「大日本持丸長者鑑(もちまるちょうじゃかがみ)」と言う金持ちを紹介する本に、三井八郎右衛門、住友吉次郎とともに「飴屋」の小倉・
玉江彦右衛門の名があります。
ということですごいお金持ちだったということがわかります。
【行橋市役所公式HP 旧飴屋門】
<<旧飴屋門に行くには>>
JR行橋駅より徒歩10分
行橋ICより車で15分
住所:福岡県行橋市行事五丁目5番3号
紙幣まで発行した豪商。
なんという財力でしょうか・・