日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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B29日本本土初空襲をテーマにした講演「アメリカが記録した北九州初空襲」を聞いてきた

 

1944年(昭和19年)6月16日、
B29による日本本土初空襲が起きました。
目標は日本有数の工業都市・北九州の八幡です。

その空襲の特別講演会があったので
聞いてきました。

 

※なお、後援会の模様や展示物の撮影およびブログなどの掲載に関しては 平和のまちミュージアム、および工藤洋三氏より許可を頂いています。

講演をしたのは、空襲戦災を記録する会全国連絡会議事務局長の工藤洋三先生です。

今回は、講演会で聞いた情報を盛り込みながら
B29の日本本土初空襲をみてみます。


(B29日本本土初空襲は中国大陸から出撃)

B29の日本初空襲、それは中国大陸の奥地・成都からの出撃でした。
B29による日本本土空襲は、サイパン島テニアン島グアム島などからの出撃が多いのですが、最初の日本空襲の時は、まだサイパン島は陥落しておらず、中国大陸の奥地にある成都からの空襲でした。
中国の四川省成都から出撃したB29は、航続距離ギリギリの範囲の九州北部にある日本の工業の中心地・八幡製鉄所を攻撃目標としました。中国大陸の成都から八幡まで片道2500キロ、往復5000キロのノンストップの飛行です。


(日本本土空襲用の長距離爆撃機B29)
下の写真は、1944年(昭和19年)6月15日に、中国の成都の空港で撮影された、日本本土初空襲となる北九州に向け準備を行うB29です。

B29は、アメリカが日本本土爆撃用に作った長距離爆撃機で「スーパーフォートレス:超空の要塞(ちょうくうのようさい)」 とも呼ばれていました。

B29は、日本側に気がつかれないように、地球の裏側をまわりインドに入り、そこからヒマラヤ山脈を越え中国に入りました。
6月13日、第58爆撃航空団所属のB-29はインドから中国前進基地への移動を開始し、
6月15日までに83機のB-29スーパーフォートレスが成都周辺の4つの飛行場に到着しました。
しかし中国に到達することができずにインドへ引き返した機体が少なくとも12機あり、その他墜落し搭乗員全員が死亡した機も出るなど、そう簡単にことは運びませんでした。

 

(目標は工業の要・八幡製鉄所

B29による日本本土初空襲の攻撃目標となったのが、日本の工業の要である福岡県北九州にある八幡製鉄所でした。

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八幡製鉄所について書いたブログはここです】

 

(B29による戦略爆撃優先目標で鉄鋼生産への攻撃を重視)

1943年(昭和18年)9月24日にアメリカの戦略分析家委員会が、ゲイツ准将に宛てた
戦略爆撃目標検討の覚書には、日本の重工業へ打撃を与え無力化するには「船舶とコークス」を攻撃目標とすべしと定めています。
そしてその年の11月、B29による戦略爆撃優先目標を掲げ、鉄鋼生産への攻撃を重視し、コークス炉の攻撃が重要だとします。

鉄鋼生産作業において、鉄を作るのには、石炭を蒸し焼きにしたコークスは欠かせません。そのため製鉄所にあるコークス炉を破壊すれば鉄を作ることができなくなり製鉄所が使い物にならなくなります。

すでに米軍は八幡製鉄所の東田コークスの存在を知っていました。そこで、八幡製鉄所の東田コークス、それのみを攻撃目標にしたピンポイント爆撃を考えます。

下の写真は米軍の偵察機が撮影した八幡上空の写真です。黄色で囲んだ部分が東田コークスです。

空の要塞B29の日本初空襲に向け、米軍も年密な計画を立て、八幡製鉄所を正確に、再現した模型を作ります。

また当時の北九州には、日本の近代化をけん引した産業の要・八幡製鉄所と大兵器工場とともに陸軍の小倉造兵廠がありました。

 

サイパン島上陸日に爆撃し、精神的打撃を与えよ!)

日本本土へB-29が飛来した1944年(昭和19年)6月16日深夜は、米軍のサイパン上陸作戦と同じ日です。これは米軍が日本軍に心理的混乱とショックを与えたいためでした。

 

 (B29出撃)

1944年(昭和19年)6月15日16時16分、68機のB29は、航続距離ギリギリの範囲の九州北部にある日本の工業の中心地・八幡製鉄所などを攻撃目標と離陸します。
B-29は各々空襲用に500ポンド爆弾4発を搭載していました。

下は米軍が爆撃の時に持参していた目標の八幡製鉄所周辺の地図です。
隠岐の島から122度の方向に進むと八幡製鉄所に到着します。

 

(47機が八幡を空襲、迎え撃つ日本軍)

B29を迎え撃つ日本側は、すでにB29の出撃に気付いていて、八幡を含む九州北部地域は 対空砲と防空気球で防備され、付近の基地では戦闘機による迎撃体制をとっていました。

B29が到着したのは6月16日未明。途中、B29は21機が到着に失敗し、47機が八幡上空に現れます。
八幡上空に到達しB29は、約2時間に渡り爆撃を行います。
しかし、この日は北九州の街がモヤに包まれ、さらに灯火管制が敷かれていたため
真っ暗だったそうで、米軍は目視による正確な空襲ができませんでした。
そのため、爆撃目標とされた八幡製鉄所にはほとんど被害がなく、攻撃目標であった
東田コークス炉には一発も命中せず被害はありませんでした。


数日後の米軍の偵察機による写真撮影では、八幡製鉄所の被害がほとんどなかったのが確認されています。
しかし、八幡製鉄所にもう1つのコークスがあることを発見し、次回の攻撃目標とします。(下の写真の、上の方の黄色で囲んだ部分)

(陸軍小倉造兵廠も攻撃)

B29による空襲は、八幡製鉄所以外に当時の小倉市にあった兵器工場「小倉陸軍造兵廠」も攻撃を受けました。 


ここでは勤労動員されていた学生など80人の命が奪われました。

【陸軍小倉造兵廠について書いたブログはここです】

B29日本本土初空襲による被害は、資料によりまちまちですが、北九州の5市(門司・小倉・若松・戸畑・八幡)では死者322名、重軽傷者477名などの被害が出ましたが、

実際はこれ以上の被害が出た可能性があるそうです。

 

(B29撃墜は?)

このB29による日本初空空襲で、米軍側では作戦中の事故で5機のB-29が損失、2機が
日本軍機により撃墜と報告します。
一方、日本側では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機と報じられました。

B29の北九州空襲の模様は当時の映画ニュースに取り上げられています。

【B29の日本本土初空襲を紹介した当時のニュース映像:第212号】

 

(B29日本本土初空襲が日米両国に与えた影響)

1944年(昭和19年)6月16日に起きたB29日本本土初空襲では攻撃目標とされた八幡製鉄所には、大きな被害が出ませんでしたが、大本営及び軍部は、心理的な面で衝撃を受けます。

 

一方でアメリカは、この空襲を大きく報道し戦意高揚に役立てます。
アメリカの新聞・イブニングスターは八幡を日本のピッツバーグに例え表現しています。👇

 

(7月8日、盧溝橋事件7周年を記念しB29再び八幡へ)

1944年(昭和19年)6月16日に行われたB29による日本本土初空襲。その1か月後の7月8日にも小規模ながらB29は八幡を空襲しています。
これは日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きた7月7日に計画した爆撃でしたが、都合で八幡到着が7月7日より1日遅れた7月8日になりました。
12基のB29が成都から佐世保海軍基地を主目標に出撃し、八幡製鉄所近くの枝光と言う地区に爆弾を落としています。
これは米軍が連合国の一員だった中国へ配慮したもので、中国大陸で日本軍と戦っている中国軍の士気高揚のためのプロパガンダ的要素が強い爆撃でした。

 

(八幡は4回の空襲を受けます)

八幡は1944年(昭和19年)6月16日の空襲を皮切りに、7月8日、8月20日、そして翌年8月8日の八幡大空襲と4回空襲を受けます。
下は、国立公文書館デジタルアーカイブ全国主要都市戦災概況図です。(パブリックドメイン

 

(変わっていく本土空襲の目標)

1944年(昭和19年)11月にB29による戦略爆撃優先目標で、鉄鉱生産への攻撃が重視され、なかでもコークス炉への攻撃が重要とされました。
やがて9月26日の3回目の鞍山空襲以後は、その優先攻撃目標が変わります。
日本の航空産業壊滅のために、戦闘機や飛行機のエンジンなどを作る
工場(中島飛行場、三菱など)の破壊へとシフトしていきます。
さらに1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲からは、一般市民への攻撃を目標とした無差別爆撃へとなり、日本各地が焼け野原になります。


(その後のB29日本空襲)

6月16日にB29による日本本土空襲のあと、第20爆撃機集団による日本及び占領地への空襲は中国やインドの基地から1945年(昭和20年)3月まで49回行いました。
そして南の島が米軍の手に渡ると第21爆撃機集団が、1944年(昭和19年)10月28日からマリアナ諸島を拠点とした日本本土爆撃作戦を始め、11月24日にはマリアナ諸島から発進したB-29による東京空襲を皮切りに、日本本土空襲が始まります。
そのため第20爆撃機集団は1945年初めにマリアナ諸島に移転し、サイパン島テニアン島グアム島などが出撃基地になります。

これらの島々にB29の出撃基地が作られることで、B29の航続距離が確保され、日本本土空襲の頻度が増します。

本土空襲当初は軍事施設を攻撃していた日本空襲ですが、やがて軍事施設に加えて非戦闘員の民間人や民家をも攻撃目標に変えたことで日本中の各都市を、焼け野原にし、戦争継続能力を壊滅させました。

御存じのように非戦闘員への無差別空襲は、ハーグ陸戦条約違反行為の国際法違反です。しかし、米軍は戦勝国なのでこれを不問とされました。

 

ちなみに米軍による日本初空襲は、1942年(昭和17年)4月18日です。

【米軍による日本初空襲について書いたブログはここです】

(講演会を終えて)

今回、空襲戦災を記録する会全国連絡会議事務局長の工藤洋三先生の講演を聞きました。写真や資料などをもとにわかりやすく、かつ興味深いお話の数々で大変貴重なものでした。
専門的に調査をして、知識も豊富な方のお話を聞くことは凄く勉強になります。