日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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7月11日 小倉でおきた黒人暴動 ~小倉黒人米兵集団脱走事件~


日本で黒人兵による暴動が起きた事を知っていますか?

占領下の1950年(昭和25年)7月11日におきています。

「小倉黒人米兵集団脱走事件」と言いますが、
単なる集団脱走事件ではありません。
脱走した黒人兵は物を略奪するし、
日本人女性に対する性的被害も起きるし、
銃撃戦まで起きてます。もうこれは暴動です。

しかも当時、日本は占領下だったため被害者は満足な保証はなく、うやむやにされ、
暴動による様々な事件が起きたことも報道規制が敷かれ知らされませんでした。

 

(戦後初の小倉祇園太鼓を翌日に控えた晩に)

黒人米兵による暴動が起きたのは福岡県北九州の小倉です。

小倉には江戸時代から伝わる小倉祇園太鼓という夏の風物詩があります。

 

その小倉祇園太鼓が戦後初めて開催されるという嬉しい日を翌日にした1950年(昭和25年)7月11日の夕方6時頃、小倉にいたアフリカ系アメリカ兵の黒人を中心にした米軍兵士たち約200人が小倉の城野基地を集団脱走します。

この日は、朝鮮半島北朝鮮軍の突然の南下から始まった朝鮮戦争が勃発した日から、およそ2週間後でした。

脱走兵たちは野戦服のままカービン銃、拳銃、手りゅう弾を持ち、小倉の繁華街や民家を襲撃し略奪や暴行、さらに性的暴行を繰り返します。

(黒人米兵が置かれた状況)

この脱走した黒人兵たちの当時の状況をみます。

朝鮮戦争では、北朝鮮軍の侵攻が激しく、米軍を中心にした国連軍は朝鮮半島各地で
敗退を続けます。

7月9日、壊滅した第24歩兵師団の補充として、黒人を中心に構成された第24歩兵連隊が、岐阜県から小倉市の城野基地に送られてきました。

 

米軍は戦争では、激戦地の場合、戦場最前線での弾除け係や命の危険がある激しい戦闘地での対応係と言った役目で植民地兵や黒人兵を最前線に行かせることがよくあります。
この暴動がおきる直前に勃発した朝鮮戦争も同様です。
朝鮮戦争では、当時は、北朝鮮軍に押されてしまい、激しい戦場に黒人兵がつぎつぎと送り込まていました。
そして同様に、小倉市城野の米軍キャンプに来た黒人兵たちも死ぬ確率が非常に高い
戦場に送り込まれることが判っていました。

 また、当時は黒人はアメリカ社会で厳しい人種差別にさらされていました。
このように黒人の待遇の悪さと、死ぬ確率が高い激戦地に送られるという恐怖が重なり、「もうどうなってもいいや」とスイッチが入り、自暴自棄になり、武装したまま
小倉の街を、そして女性たちを襲撃したのです。

 

(銃撃戦)
黒人兵暴動の知らせが入り、小倉にある米軍の憲兵司令部が鎮圧にあたることになります。三萩野周辺では、武装した憲兵隊のジープが展開し、同時に、小倉市警察は、応援を要請されます。


脱走からおよそ2時間後、清水・旦過橋・香春口に非常線が張られます

脱走兵たちは武装しており、警察、さらには鎮圧のために出動した米陸軍二個中隊も
出動し、銃弾が飛び交う市街戦も起きています。

憲兵司令部のマグリアノ曹長は、小倉署の巡査と共に20mm機関砲を装備したジープで走り回りながら、兵士の基地への帰還、事態の鎮圧へと駆け回ります。

最後まで脱走した黒人兵は、12日夕方に逮捕され、ようやく沈静化します。

そして、第24歩兵連隊は、まもなく朝鮮半島へ出発し戦場で全滅しています。

(報道されず)

事件が起こった当時の日本は太平洋戦争に負けアメリカの占領下です。当時の日本では、米軍に都合の悪い出来事は当然報道されません。そのため、この暴動は新聞などのニュースになっていません。

 

(「黒地の絵」)

松本清張が、事件当時、小倉に住んでいました。そして、この小倉黒人米兵脱走事件を「黒地の絵」という本に書いています。👇

 

 

今回の暴動は、
黒人が置かれた米国内での差別・偏見・苦しさ、
さらに戦場の最前線に送られるという
「やるせなさ」などが爆発し発生したものですが、
その怒りを本国アメリカではなく、
占領していた日本の住民に対して行ったということが
なんとも嫌な感じです。