太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月7日、
B29迎撃の切り札として期待された
ロケット戦闘機「秋水」が初飛行しました。
(高度1万メートルに到達する戦闘機)
太平洋戦争末期、日本中を空襲し焼け野原にしたB29は、日本上空の高度1万メートルから爆弾を落としていました。それに対し迎撃する日本の戦闘機は高度1万メートルの飛行が難しく、また高射砲も発射はしても届かないことが多かったのです。
しかし秋水は、高濃度過酸化水素を推進剤としてロケットのように発射し、B29が飛行する高度1万メートルまで約3分半で到達できるためB29撃墜用として期待されます。
こういったことから秋水は、プロペラも水平尾翼もない、後退翼で普通の戦闘機とは異なった形をしていました。
(陸海軍共同開発の秋水)
秋水は陸海軍共同開発です。陸軍と海軍は、兵器の開発において共同で行った例が、
ほとんどなく、軍用機に関しても別々に開発し生産していました。
しかし、秋水は、機体製作は海軍主導で、ロケットエンジンについては陸軍主導という形で共同開発します。
(独から取り寄せた設計図に日本のアイディアを加えて)
秋水の開発に際しては、1944年(昭和19年)7月に同盟国のドイツから潜水艦で運ばれてきた、メッサーシュミット製Me163「コメート」ロケット戦闘機の資料が下地になっています。
しかし、ドイツ運んだこの資料は機体外形の3面図と、ロケット燃料の成分表、そして取扱説明書などしかなかったために、それだけでは不十分すぎるため、それに日本の独自開発を加えていきます。
こうして日本軍がドイツから持ち帰った図面を基に、陸海軍と三菱重工業が協力して制作を進めます。
三菱重工業が8月から試作機の製作に着手し機体、エンジンの両方を製作します。
(高度1万メートルからグライダーのように滑空し戻る)
秋水は、いざ出撃となるとロケットエンジンの巨大な推力で高度1万メートルまで3分半という驚異的な上昇力を発揮します。そして、時速600~800キロでB29に近づくと、両翼に搭載した30ミリ機銃で攻撃します。
秋水が搭載していたロケット燃料は上昇でほとんど使い切ってしまうため、その後はグライダーのように滑空して戻ってくるという計画でした。
秋水は離陸後、車輪を切り離し、着陸する時には機体下面に装備されたソリを使うようになっていました。
(石油を必要としない)
石油不足に頭を抱える日本のとって秋水は好都合でした。
秋水は、過酸化水素水やメタノール、ヒドラジンなどの化学反応で推進力を得るジェットエンジンに比べれば構造が単純で、日本で枯渇気味の石油を燃料としないため、軍部は大いに期待します。
(7月7日初飛行)
わずかな設計図しか入手しなくて情報も限られている状況で、未知とも言えるロケット戦闘機の開発は進められ、たった1年で試作機が完成します。素晴らしい技術力・開発力です。
1945年(昭和20年)7月7日午後4時55分、秋水は、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で初飛行を行います。
初飛行で秋水は、ロケットエンジンへの点火に成功し滑走を開始。
滑走距離約220mで離陸し初飛行に成功します。
しかし、離陸から約16秒後、高度350mほどで構造上の欠陥から機体後部から出る炎が黒煙になりエンジンが停止します。
こうして、無動力となった「秋水」を滑空飛行によって滑走路に着陸させようとしますが、失敗して機体は大破、エンジンは爆散。
秋水を操縦していた海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉は病院に運ばれ、頭蓋底骨折で翌7月8日午前2時に亡くなりました。享年23。
(たった1度の飛行)
秋水の2度めのテスト飛行は8月15日に予定されていましたが、準備が間に合わず、実行されないまま終戦を迎えました。
日本唯一のロケット戦闘機「秋水」が空を舞ったのは、7月7日の初飛行ただ1回にとどまりました。
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。。。ということで7月7日、
ロケット戦闘機秋水が初飛行を行いました。