ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない1945年(昭和20年)8月27日、
東京都大田区に、占領軍向けの慰安所が開業します。
RAA=
「レクリエーション&アミューズメント・アソシエーション」です。
このレクリエーション&アミューズメント・アソシエーションと言う英語名は、日本語で表現する場合は、直訳されずに、「特殊慰安施設協会」と訳されます。
「特殊慰安施設」・・・・そう、このRAAは、占領軍として日本にやってくる米兵を相手に日本女性が性の接待をする組織のことで、占領下の占領軍兵にによる日本人女性への性暴力を防ぐために設置されました。
(RAA第一号「小町園」)
1945年(昭和20年)8月27日、東京都大田区に開業した「小町園」、ここは占領軍用のRAA第1号店で38名の女性がいました。
翌日の8月28日に米軍の先遣隊が神奈川県の厚木基地に到着することになっていたために、東京に向かう途中の京浜道路沿いの場所が選ばれました。
大森海岸には、芸妓屋が軒を並べた“花街”があり、小町園は、もともとは、その花街近くにある料亭の一つでしたが警視庁があっせんし、RAAが借り上げたそうです。
(性の防波堤として)
戦争で負けた日本。終戦で焼け野原になり、超インフレや物不足で生活が苦しい状況でした。また女性たちは就職できる職業が少ない状況でした。
RAAで働く女性たちは「日本女性を守る性の防波堤」として、宿舎、衣服、食料すべて支給と言う条件で公募されました。
そのため、生きぬくためにRAAに志願する人も多くいました。
小町園のRAAで働く女性の月収は、当時の金額で5万円にのぼる人もみられました。
この当時の銀行員の初任給が80円なので、その600倍!!です。
しかも米兵達には、高級たばこ、ウイスキー、チョコレートや果物、缶詰など当時なかなか手に入らない物を持ってくる人も多く、そのような「高級な生活」を手に入れる
手段の1つでした。それを売って金を稼ぐ女性もいたそうです。
RAA第一号「小町園」を皮きりに、東京都内では終戦の3ヶ月以内に立川、調布、
福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業しました。
さらに東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置され最盛時には7万人の女性が働いていたという話もあります。
(RAA安浦ハウス)
下の写真は、神奈川県横須賀にできたRAA安浦ハウスです。この人だかり!!
安浦ハウスは、性病が蔓延したために閉鎖し、その結果、横須賀の街では米兵による
性暴力事件が多発したそうです。
また名古屋には連合国軍の女性兵士用の「慰安夫」も存在したそうです。
(占領軍相手の性的サービス)
RAA以外にも占領軍相手の性的サービスは各地に誕生します。
下の写真は、浮島屋、バーホールですが、鉄条網が張られていて周囲と分けられ、看板には、「スペシャルサービス」と書かれています。
また、不特定多数の米兵を相手にするRAAとは別に、特定の軍人と愛人契約を結ぶ“オンリーさん”も登場します。
占領軍の兵士は、家族を殺され、家を焼かれ、つい数ヶ月までは鬼畜米英と呼び憎悪の対象でした。
しかし戦争で負け占領された困窮期に、世間から白い目で見られながらも、自らの身体で生計を立て生き抜こうとした彼女たちを責めることはできません。
(なぜRAAが置かれたのか?)
沖縄戦では上陸した米軍が住民女性に10万人に対し性的暴力を行ったという説もあります。そこで終戦で日本本土にやってくる占領軍が、同じように日本各地で性暴力を起こさないようにと、このRAAが設置されました。
この設立に関しては占領軍側からの要請があったという説もあります。
(RAAの終焉)
このRAAは、1946年3月27日に閉鎖されます。
閉鎖の理由は、ポツダム宣言による公娼制度廃止の方針と、元アメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルトの反対、また性病にかかるGIたちが増え続けるという理由があったと言われます。
【当時の性病の強制検診の様子】
RAAが閉鎖されると、民間の性的サービス業に流れたり、あるいは性処理の行き場を
失った米兵たちによる性的事件が各地で相次ぎます。
またRAAの閉鎖で職を失った女性たちにはパンパンガールと呼ばれる街娼へと流れる者も多くいました。
【RAAに関しては以下の書籍がお勧めです】
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終戦直後の日本にRAAがあったこと、そして敗戦国の焼け野原という貧しい環境下で
自らの身体で懸命に生き抜いた方々がいるという悲しい歴史を忘れてはいけません。